医者からストリキニーネを手に入れることが出来るから……」さう言ひかけて伊豆は笑はうとしたのだが、笑ひは掠れて単に空虚な響となり、それにつれて痩せた肩を無気味にゆさぶつた。それから暫くして今度は冷笑を泛べると、
「お前だつて、小笠原を殺す力がないではないか」と言つた。
「おや!」と痴川は思つた。突然ぼんやりしてしまつた。それから急に河のやうな激怒が流れてくると、同時に泣き喚きたくなつたのであるが、その時伊豆の顔付からふと間の悪いやうな白らけた表情を読んだので、同病相憐れむといふやうな淋しさを受けた。思ひがけない静かな内省が何処からともなく展らけてくるやうな冷めたさを覚えて自分でも呆れるほど妙にしんみりしてしまつた。
「それは君の場合とは幾分違つてゐる。俺達は色々な余計なことを考へすぎるやうだ。俺は無論ある意味で小笠原を殺したいと思つてゐるし、もつと突きつめたところまで進めば今でも人を殺す力はある。併しただ「考へてゐる」といふだけのことは、本当の人間の生活では無と同じことなんだ。人を殺すか、自分で死ぬかするくらゐ本当のことは或ひは無いかも知れんけど、しかし……」
痴川は如何にも自分は真実を吐露すといはんばかりに、まるで何か怒るやうな突きつめた顔で吃りがちの早口で呟いでゐたが、急に言葉を切つた。ふいに喋るのが面倒臭くなつたのだし、それに簡単な解決法が頭に泛んだからである。そこで、言葉を切つたかと思ふと、痴川はいきなり伊豆に武者振りついた。そのはずみに子供のやうに泣きだしてゐた。痴川は伊豆を捩伏せた。痴川は泣きじやくりながら甃《いしだたみ》へごしごし伊豆の頭を圧しつけ、口汚く罵つたり殴つたりした。伊豆はねちねち笑ひながら殴られてゐたが、やはり痛いとみえて、時々ふうふう空気を吹くやうなことをした。痴川は今度は伊豆を笑はせまいとして一途に頬つぺたを捻つたりしてゐたが、漸く手を離して立ち上つて、尚厭き足らずに数回蹴飛ばしてから、自分の家へ戻らずに往来の方へ出て、人気ない街へ向つて一散に走り去つた。駈け乍らも頻りに伊豆を罵つてゐたが、街角を曲ると急にほつとして、腰が崩れるほど泪が溢れた。彼は漸く電信柱に縋りついて、「俺はどうしやう。どうしたらいいだらう。もう生きたくもない」と言つて、喉がつまつてきて一生懸命胸を叩いてゐるのであつた。
伊豆はどうやら起き上つて、暫く嘔吐を催して苦しんでゐたが、それから思ひ出したやうに歪んだ笑ひを泛べて、崩れた着物をつくろひもせずにいきなり懐手をして、ぶらりぶらり帰つていつた。
あの手紙から三日目の夕暮れに小笠原は麻油を訪ねてきた。翌日別れると、別れぎはにも次の日を約束したのだが、併し麻油は尚も早速用箋をとりあげて前と大同小異の手紙を書き、にやにやしながら投函に行つた。約束の日に小笠原は来た。こんなことを数回繰返した。憂鬱な顔をそれでも仕方なしに笑はせるやうにして近づいてくる小笠原を見ると、麻油はくすぐつたい思ひがしたが、誰にするよりも大袈裟な明るさではしやぎながら彼を迎へた。どういふものか、小笠原の物々しい屈託顔を前にして独りで笑つたりお喋りしてゐる最中に、麻油は急に悪戯つぽい顔をして舌でも出してみたいやうな気持になつてしまふのだが、別にそれを隠す気持にもならないので遂にさうしてしまふと、併し小笠原は別段気にかけずに矢張り憂鬱な顔をして、時々自分の方でも笑はうとしたり喋らうとしたり努力してゐる。そんな時、麻油はふいに孤踏夫人の神経質な顔を思ひ出したりした。小笠原の物々しい深刻面の真正面からぶつかつていつて、ほかに格巧がつかないので是も苛々しながら同じやうな物々しい顔を向け合せてゐるに相違ない孤踏夫人の様子は見ものだらうと思つた。麻油は時々ふきだしたくなつて小笠原に頬ずりした。
小笠原は急に東京を去つた。小笠原は親しさに倦み疲れた。親しさのもつ複雑な関心に腐敗した。親愛な人々を見暮らす根気が尽きて、限りなく懐しみ乍ら訣別を急がうとする広々とした傷心を抱き、それを慈しんで汽車に乗つた。知る友のない海浜の村落へ来て、海を眺めた時、ほつとした。何物にも慰まなかつた小さな心が、縹渺《ひょうびょう》とした海の単調へ溶けるやうに同化してしまふのを感じて、爽やかな眩暈を覚えた。長い疲れの底に密封されてきて、もう悪臭を放ちさうな澱み腐れた涙が、やうやくたらたらと頬に伝ふのを感じた。毎日磯に寝て、飽くなく貝殻を玩んだり無心に砂を握つてゐたりして、甘い感傷に安らかな憩ひを覚えてゐた。
ある雨の昼、孤踏夫人へ海の便りを書いた。静かに雨の降る海のやうなひたすらな懐しさで、もし気が向いたら遊びに来てと書き、それを投函して、無論夫人は来るに違ひないことを知つた。又、長い疲れに似た、光の射し込まない部屋のやうな退屈が、雨の降る海から
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