たとき、いつも比較的に富士見の皮膚のすきとおる患者たちを思いだしたが、精神病院にも同じ年ごろの分裂病の患者たちがいて、彼らも一様に病院を呪い、病気を呪い、鉄格子の外へ脱出したがっていたが、帰する思いは非常に違っていたようである。
 皮膚のすきとおる青年たちは、いずれもインテリであり、絶望だの虚無だのと、それらの言葉について関心を持っていたが、然し、彼らは、健全な肉体と、健全な生活、美しい恋人や、家庭などを考え、そして山々を呪い、都会にあこがれていたようである。
 分裂病の青年たちは、希望に対して不信であり、彼らの考えが、はるかに孤絶していることは分るが、彼らも一様に、美しい恋人を胸に描いていたことに変りはない。然し、人生に対する希望が、皮膚のすきとおる青年たちほど、熱烈で純情であるとは思われない。然し、あるいは、はかりがたいほど深く熱烈であるために、不信の度が激しいのかも知れなかった。彼らは孤絶していたが、その外面にも拘らず、人間に対する愛着は、まさに「きわまりない」もののようでもあった。もとより事情は不可能であろうが、私は、精神病院と結核療養所の位置を変えたらよかろう、と、鉄格子から、変哲もない都会の屋根や電線を眺め、電車の録音をきゝながら考えていた。
 私は、然し、暗い旅から旅へ、まるで絶望の中を縫うようにして、まさしく、私自身としては勢一ぱいの、あらゆる努力によって仕事と闘い、今から思えば、あの状態で、あれだけの仕事をすることが出来たことが不思議であった。
 然し、破局が来た。それは当然来るべきものであったろう。
 私は秋の深まる頃から、アドルムの量が二十錠を必要として、ようやく三時間ほど眠り得る程度に衰えていたが、それらの薬品中毒の症状が、ぬきさしならぬものとなっていた。
 洟汁の流れが間断なく、一分以上洟をかまずにいるということが出来ない。かみ残された何分の一かは常に間断なく胃に流れこみ、終日吐き気を忘れることが出来なくなっていた。
 つゞいて皮膚が、たえがたく、かゆくなった。はじめは虱などのせいかと思い、夜毎にD・D・Tをまいたが反応がないので、常に家に硫黄風呂を絶やさず、朝から夜中まで四五回ずつ、風呂につかった、然し、全身の掻《か》ゆさは増すばかりであった。
 気分転換が何より必要だから、キャッチボールをしたり、フリーバッチングをしたりしたが、やがて、その気力も失った。それと同時に、もはや一行も書き得なくなった。それは去年の十二月半頃からのことであった。もはや外出の気力も失ったのである。
 私は、然し、さらに、勇気をふるい起した。
 私の長篇小説の舞台の三分の一ほどが京都になっていた。私は以前、一年半ほど京都に住んでいたが、十何年も昔のことで、もう、京都の言葉が思いだせない。一度は京都へ行く必要があったので、その旅行に希望をかけた。私は大晦日の朝の急行で、東京を出発した。これが致命的な失敗となった。
 東海道線も、その翌日、つまり一月からは汽車にスチームが通じたのだが、大晦日の朝の急行はスチームがなかった。寒気のために、全身の顫《ふる》えがとゞまらず、鼻から、口から、まったく寸秒の暇なく洟汁が流れ、こみあげ、私は吐き気のために、そして、それを抑えるために、胃がねじくれ、意識が、苦痛以外には、すべて、失われるようであった。
 その夕方の六時、京都へ辿りついた時、私はまったく病人であり、発熱して、旅館に病臥してしまった。京都へ着いたら、と、色々と思い描いていた希望は、すべて虚しく、約二時間、京都の街をうろついたほかは、旅館にとじこもって、炬燵《こたつ》に寝倒れ、その肉体的な苦痛よりも、仕事と闘うために最後の希望を托していた、その打撃が、まさしく私を打ちふせてしまったのである。
 この旅行の取柄と云えば、私の泊った旅館が、終戦まで宮様の邸であったことで、その間どりは、私がはじめて見たものであった。つまり、廊下を通らずに、大きな座敷を通らなければ、奥へ行くことが出来ない仕掛けになっており、その座敷が「トノイ」の人のつめたもののようであり、この関所を通らなければ、夫人も石川五右衛門も奥へは行きがたい仕組みになっているのである。又、昔は、和風の本館があったと思われるところが、洋館に造り変えられ、そこには、まだ宮様用の、紋章づきの、玉座のような椅子があった。クッションのない板のように堅い椅子で、宮様はこれにかけて訪客に接したのであろうが、生活の堅苦しさが思いやられるような椅子であった。私はキャッチボールのできるような広い和室へ通され、その片隅に炬燵をつくってもらって寝倒れていた。
 ただ失意のみをいだいて、京都から戻ってきた。それでも一月中は、まだ覚醒剤を用い、衰えはてた注意力をなんとかしてかきたて、仕事をしようと努力した。虚
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