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そのころ、つまり、どうやら妄想を抑えつけることに成功して、もとの自分に戻ったころだが、私は、はじめて、小説を書いた。それは、まだ小説家になろうなどゝいう考えではなく、チエホフの短篇に感動したあまり、自分も書いてみたくなって、一夜のうちに書いたものだが、今、記憶しているのは、老人が主人公であったこと、出来栄えはとにかく、スラスラと、一夜に一冊のノート一ぱいの文章がよどみなく書きあげられたという快感だけである。
私が去年の夏、旅先で仕事をしようとして、ノートブックを用いることにした原因の一つは、この幼い記憶、幼い快感が、私を誘う力となっていたことも事実である。
然し、すべてそれらの希望が虚しいものであることが分って後は、それらのすべてが、たゞ負担となり、虚しい希望の故に、私は、更に、苦悶し、希望によって、地獄を見つめるようなものであった。
私はよく熱海へ行ったが、希望の虚しさに苦悶して、熱海まで行き得ず、小田原で下車して(私は十年ほど以前に小田原に一ヶ年ほど住んでいた)酔い痴れざるを得なかった。然し、熱海へついて後は、益々多量に覚醒剤をのみ、まったく必死の覚悟によって、仕事に没入することに悪戦苦闘しつゞけたのである。
私は、然し、熱海よりも、より多く、諏訪を好んだ。然し、マッチ箱のような混雑した中央線で、七時間半もゆられることには体力的に堪えがたくなっていたので、そう多く行くことはできなかった。
私が諏訪へ行くようになったのは、Wという若い友人が胸を病んで、富士見のサナトリウムに居り、彼をムリにそこへ行くようにさせたのも私であるから、彼を見舞う責任が私にあったせいである。
富士見のサナトリウムといえば、いかにも白樺にかこまれた高原の詩趣にみちているようだが、実状は、高原のコヤシ臭い畑の中のもう廃屋に近いようなうそ寒いところであった。
然し、汽車が、南アルプスから八ヶ岳、北アルプスへと、次第に山のふところへ深くはいって行く時、破れかぶれともいうような私の胸の思いが、いくらかでも、澄み、少年の日のような幼く淡い孤独に慰められる思いがしたのは事実であった。
然し、乱雑な車中に吐き気を催し、いく度下車を志し、吐き気の苦痛と闘いつゞけたか分らない。私の気のせいかも知れないが、小淵沢《こぶちざわ》から乗る女学生徒に、可愛らしい娘の多かったこと、諏訪盆地の野良を歩いて、農家の娘に可愛い顔立の多かったこと、然し、偶然かも知れない。昨秋はじめて富士見へ行くとき、家の近所のカストリ屋のオヤジ(と云っても三十ぐらいの威勢のよいアンチャンであるが)が、ちょうどその土地の生れの人であるから、一緒に行ってもらった。体力が衰えて、病人への見舞いの食糧をつめこんだボストンバッグを自分で持つことが出来なかったせいもあった。はじめて歩く野良に可愛い娘が多いので、このへんは美人が多いね、と云うと、そうですとも、私は特務機関で、日本中はおろか、台湾、支那を歩きましたが、私の生れ故郷ぐらい美人のいるところはありませんや、と威張った。私の女房が、その一人です、と、高原の秋空に、彼はカラカラと笑った。彼はそれが言いたかったゞけで、ほかの証言は当にならない。
私たちは上諏訪の某ホテルへ行ったが、私たちの係りの女中が、目の覚めるような娘であった。女中の立ち去るや、彼は胆を失い、しまった、はやまった! と叫んだが、これはつまり、結婚をはやまった、という長大息であったらしい。彼の女房自慢も当にならないのである。翌朝、私たちは諏訪神社へ自動車を走らせた。神社を見終って、彼はいかにもなつかしげに、はア、こんな神社ですかネ、おかげ様で、はじめて、見ました、と云ったが、要するに生れ故郷の神社まで彼は知らなかったのである。ちなみに、彼は上諏訪の生れであり、現に両親もそこに住んでいるのである。こういう不思議な案内人に導かれて、私は富士見のサナトリウムへ行った。この案内人は、生れ故郷の四周にそそり立つあらゆる山々の名も知らなかった。こうして、私はそれ以来、時々富士見へ出かけたが、この案内人の水際立った不思議さが、結局、何よりの取柄であったようだ。ほかの思い出は、苦しいことばかりであった。
然し、富士見のサナトリウムの患者たちは、私の訪れをいつもあたゝかく迎えてくれた。疲れきった私は、病人に同情され、病人が看護婦をつれてきて、葡萄糖やビタミンの注射を打ってくれたりしたが、透きとおるような皮膚をした青年たちと食事をしたりしていると、一そうこの山々がなつかしく、都会がうとましく思われるのであったが、皮膚のすきとおる青年たちは一様に山々を呪い、都会にアコガレをよせていたが、その思いは、まことに激しく、目覚ましいものであった。
私は精神病院へ入院して、やがて病人たちを観察しはじめ
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