しかった。一行も、書けなかった。
 闘い破れたと悟ったのは、一月の二十五日頃であったかも知れない。このまゝの肉体的な条件では、一行といえども書きがたいことを悟ったのである。洟汁は、もう、普通ではない。私は、ようやく、これは蓄膿症だと思った。私の全身は、象皮病のように荒れて、堪えられぬかゆさであった。
 私は覚醒剤をやめた。書くことを、やめたのだ。書く意志をすてたのである。当分、朝も、昼も、夜も、たゞ、ねむろう。長いこと、あるいは三年間ぐらい、つゞいて睡眠が不充分であった。冬眠。左様、蛇の冬ごもりのように、しばらく冬眠しようと思った。
 そして、それからのことは、もはや明滅的にしか、覚えていないのである。通算して、一日に、約五十錠ほどずつ、アドルムをのんだ。私は一日ねむったつもりでいたのに、一週間すぎていたりした。私はそれを殆ど信じることが出来なかった。
 急速に、幻聴がはげしくなった。幻視は、まだ、現れなかった。私は昏酔しながら、昏酔を自覚することが出来なかった。いつも、夢を見ていたが、それを夢として自覚できずに、行為としてしか自覚することが出来なかった。私は、小説の用件で、雑誌社の人と用談したり、酒屋の借金を払いに行ったり、すべて、日常のことのみを夢に見、然し、それを、夢と自覚することが出来ず、実際自分が行った行為としてしか理解することができなかった。
 それにも拘らず、私の知らないうちに、一週間がすぎている。たしかに、寝た日から、一週間目の日附の新聞が枕元にあるのである。私は夢の中の出来事を確実な行為として思いだす。そして、その出来事から、何分間ぐらいウタタネしたのだろうと考える。そして、誰々が来て、こう約束した筈だが、もう彼は帰ったかと、女房にきく。いゝえ、あなたは寝ていらしたゞけよ、どなたも来ないわ、と女房が云う。女中に、きゝたゞしてみる。女中も、そう答える。
 私は、それらを、みんな、人々が心を合わして、私を惑わしている奸計《かんけい》だと思った。新聞の日附も信用ができず、みんなが、心を合わせて、そこまで綿密に、私を惑わす計画を立てゝいるのだと思った。
 富士見のサナトリウムにいたWは、東京へ戻って入院し、手術することになっていた。五ツある肺のうち、Wは三つの肺が空洞であり、むしろ、生きているのが不思議だとのことであったが、ともかく、奇妙に、営養がよく、その点だけで、あるいは手術に成功するかも知れないが、死ぬかも知れない。果して、手術をしてもよいか、主治医の藤森先生から、私へ、問い合せの手紙がきていた。どうしてよいか、私には、分らなかった。
 入院中のWが金に困っている筈だ。手術の費用もいる筈だ。然し、雑誌社は、私が仕事と闘うことをやめたと知って、もはや一文も金を貸してくれなかった。私は昏酔中に、雑誌社のSと用談し、そして、Wと会った。まだ見たことのない藤森先生ともお会いした。
 すべて、それらが、夢であることを、私はどうしても、信じられなかった。私は、私をたぶらかす女房や女中の奸計を怒り、木刀をふるって、追い廻した。然し、私の歩行は、もはや不自由で、便所へ行くにも、這うようにしか行動ができない。
 気違いは、裸になるというが、妙なもので、私も、女房や女中の奸計を怒って狂いたつと、一糸まとわぬ裸体になっていた。いつ、なぜ、そうなったか、記憶がなく、それを羞しいとも思わなかった。
 その他の狂態について書こうと思えば、まだ記憶している多くのことがあるし、まったく意識喪失の下に為された多くのこともあるに相違ない。なぜなら、二十五六日の時間のうち、私の自覚している時間は五六日にすぎなかったのだから。たゞ、甚しく特殊な現象について云えば、私が自覚した五六日が、ひどく好色的であったということである。これは、アドルムの過用によって、その方面の神経が刺戟されたせいだろうと思うが、もとより足腰も立たぬ状態のことで、実際の行為は、生理的に不可能であった。
 然し、私には、厭世とか自殺という考えのみはなかったのである。私は催眠薬によって、自ら冬眠をもとめたが、それは病気を治すため、疲れを治すためであり、どうしても、仕事を書きあげてみせるという決意と覚悟のためであった。
 私は一週間ほどの無自覚な睡眠から目覚めた一夜、二階から飛び降りようとしたが、それは自殺のためではなく、凡そあべこべの意志と決意によってゞあった。私は足が折れるだろうという覚悟はあった。然し、死ぬ筈はない。又、死んではならぬのである。この一月に、最後の希望を托して、仕事と闘うために、京都へ旅立ったように、私は最後の手段として、二階から飛び降り、足を折るかも知れぬという危険にかえて、立ち直り、仕事を為しうる自信をつかむためのキッカケを生みだそうとしたゞけだ。自分をトコトンま
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