で追いつめ、ためしてみることによって、仕事への立直りを見出そうと祈念したゞけだ。
後日、千谷さん(東大神経科外来長)が私にきいた。京都から失意のみを負うて帰京された、それから次第に、もう生きていてもつまらないと思うようになったのですね、そして自殺しようとなさったのですね、と。
私は昂然とそれに答えた。
「全然、アベコベです。私は、死にたいと思ったことは一度もありません。みんな生きるため、最後の危険をかけて自分をためして、きっとそこから仕事への立直りを見出すためです。死のうなんて、そんな、バカな」
然し、私の呂律《ろれつ》はまわらなかった。私の舌はもつれ、殆ど、言葉を思うように表現することが、七分通り不可能になっていた。私が、その時、突如として、身構えを改め、千谷さんを見つめて、全身の力をもって反撥したことは事実である。然し、私の腰は、うまく支えることができず、グラグラした。
私の女房が長畑さん(東大柿沼内科医局長)をよんできた。長畑さんは、アドルムをとりあげ、私の許可がなければ、もう一切の薬を服用してはいけません、約束しますか、と云った。私は、約束します、と答えた。その代り、明日にでもすぐ入院したい。耳鼻科へ入院したい。蓄膿が、私の思考を奪い去ったのです。鼻を治せば、必ず、すべてが治りますから、と頼んだ。その晩、その翌晩も、長畑さんは私の家に泊ってくれた。幻聴と不眠に悩む私の不安をすこしでもまぎらしてくれるためであった。事実、私は一睡もできなかった。身体の位置を動かすたびに、岸辺をうつ波のように広い幻聴が一時にわき起こり、私の頭は分裂しそうになるのであった。その幻聴は、悪意のある幻聴ではなかった。隣室から誰かゞ起きて階下へ走り、同時に階下から誰かゞ起きて階上へ走り、それが階段で交錯し、井戸の水をくんでバケツへあける音や、掃除をする音や、同時に色々の音が起るだけであった。そして、その頃から、幻視も、やや明確に起りはじめた。それは、いつも、女房の顔であった。私の隣にねているのである。然し、よく見ると、そこには、誰も居なかった。
長畑さんが耳鼻科の医者をつれてきてくれて、翌日にも、耳鼻科へ入院するつもりでいたら、長畑さんのつれてきたのは精神科の千谷さんであった。私は耳鼻科へ入院したいのです、と、やゝ怒りを現して叫んだが、千谷さんはそれには答えず、私を診察した。
こうして私は精神科へ入院し、持続睡眠療法をうけ、一ヶ月間昏酔したが、目が覚めたとき、一夜ねたとしか思わなかった。科長の内村さんは、結局、東大の療法と同じことを、私が無意識に自宅に於て行っていたわけだろうと、笑った。
昏睡からさめて後、耳鼻科の医者がきて、ていねいに調べてくれたが、蓄膿らしい何物もなく、全然故障がなかった。それも一つの精神病のあらわれなんです、と千谷さんは笑った。千谷さんに向い、蓄膿症について、はじめて訴え叫んだ時から、全然とりあわなかった千谷さんの取り澄した顔を、時々癪にさわりつゝ、なつかしむ。
鉄格子のはまった病室で、昏酔からさめ、不自由な歩行も次第に治ると、全身のかゆみも荒れた皮膚も拭うように消え去っていた。まもなく、私は、急速に外界をなつかしみだした。私は千谷さんの許しを得て、後楽園へ野球見物を日課にしたが、私のなつかしんだ外界は、去年の秋に眺めくらしたアルプスであった。アルプスの麓で、あまり熱くない湯につかりたい、と思った。視覚の衰えが今も尚最も治らないようである。然し、それよりも、心の奥に、大いなる怒りが燃えつゞけて、治ることがないようである。ゲヘナの火だろう。私は放心からさめて、苦笑しながら、こう呟くのが、鉄格子の中の時から、癖になりだしていた。
底本:「坂口安吾全集 08」筑摩書房
1998(平成10)年9月20日初版第1刷発行
底本の親本:「作品 第四号」
1949(昭和24)年10月25日発行
初出:「作品 第四号」
1949(昭和24)年10月25日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年1月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全5ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング