である。
将棋までハッタリで指しては負けるのは仕方がない。升田のためには良い教訓であったろう。
升田は木村将棋の弱点を省察して、勝負の本質をさとったのであるが、木村という人が又、元来は骨の髄からの勝負師で、彼が今日、新人として出発する立場にあれば、升田と同じ棋理によって出発したに相違ない。
人間は時代的にしか生きられぬもの、時代の思想に影響され、限定されるものであるから、升田と同じ型の勝負師である木村が、貫禄を看板に将棋を指すようになった。
負けても横綱の貫禄、そんなことが有るものじゃない。勝負は勝たねばならぬもの、きまっている。勝つ術のすぐれたるによって強いだけの話である。
昔、木村名人は双葉山を評して、将棋では序盤に位負けすると全局押されて負けてしまう、横綱だからと云って相手の声で立ち位負けしてはヤッパリ負けるだろう。立ち上りに位を制すること自体が横綱たるの技術のはずだ、という意味のことを云っている。
まさしくその通り、勝負の原則はそういうものだ。そのころの木村名人は、勝負の鬼であり、勝負に殉ずる人であった。そのうち、だんだん大人になって、彼自身が横綱双葉山となり、貫禄
前へ
次へ
全10ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング