である。
将棋までハッタリで指しては負けるのは仕方がない。升田のためには良い教訓であったろう。
升田は木村将棋の弱点を省察して、勝負の本質をさとったのであるが、木村という人が又、元来は骨の髄からの勝負師で、彼が今日、新人として出発する立場にあれば、升田と同じ棋理によって出発したに相違ない。
人間は時代的にしか生きられぬもの、時代の思想に影響され、限定されるものであるから、升田と同じ型の勝負師である木村が、貫禄を看板に将棋を指すようになった。
負けても横綱の貫禄、そんなことが有るものじゃない。勝負は勝たねばならぬもの、きまっている。勝つ術のすぐれたるによって強いだけの話である。
昔、木村名人は双葉山を評して、将棋では序盤に位負けすると全局押されて負けてしまう、横綱だからと云って相手の声で立ち位負けしてはヤッパリ負けるだろう。立ち上りに位を制すること自体が横綱たるの技術のはずだ、という意味のことを云っている。
まさしくその通り、勝負の原則はそういうものだ。そのころの木村名人は、勝負の鬼であり、勝負に殉ずる人であった。そのうち、だんだん大人になって、彼自身が横綱双葉山となり、貫禄将棋を指すようになり、名人の将棋を指すようになった。
然し木村本来のものは、あげて勝負師の根性であるから、本来の根性に立直れば、元々の素質は升田以上かも知れぬ。
名古屋の対局では、木村は見事であった。一つの立直りを感じさせるものがあった。
然し、まだ、どこやらに、落ちた名人、前名人、という、何となくまだ貫禄をぶらさげている翳がある。これのあるうちは、木村は本当に救われておらぬ。一介の勝負師になりきらねばならぬ。骨の髄から勝負ひとつの鬼となりきらねばならぬ。
名古屋の対局では、升田が相手をなめてかかってハッタリ的にでたのに対して、木村はホゾをかため、必死の闘魂をもってかかってきた面影があった。
だから、この一戦に関する限り、木村は勝負の鬼、めざましく、見事な闘魂、身構えであったが、その代り、この一戦だけ、というような超特別の翳があった。
これだけは負けられぬ、そういう特別な翳であり、この一戦を出はずれると、もとの貫禄へ戻りそうな、不安定なものがあった。
そういう危険は升田にもある。ハッタリで指せば負けるのである。
毛一筋の心の弛《ゆる》みによって、勝ちも負けもする、こゝに
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