木村二時間余考える。木村塚田名人戦の第七回戦、つまり木村が名人位から転落した最終戦で、急戦持久戦、この岐れ目というところで、木村、四時間十三分考えた。見物の私も、これには閉口したものだが、四時間十三分も考えた以上、退くに退かれず、無理な急戦に仕掛けてしまった。そして負け、名人位から落ちてしまったが、この勝負では二時間八分だか考え、結局、その二時間をムダ使いして、考えた急戦法を断念し、あたりまえの持久戦へ持って行った。
人間の気持として、これが当り前のようだけれども、却々《なかなか》できないのである。たった七時間の持時間、そのうちの二時間、それだけ使って考えた以上は、のっぴきならない気持になり易いもの、私たちの場合なら、すでに百枚書いた原稿を不満なところがあるというので破り棄てゝ書き直す、却々できない。
木村二時間八分をムダにし、よく忍んで平凡にさす。すると升田、相手が二時間も考えたから、こっちもいくらかつきあって考えるかと思うと、左にあらず、木村がさす、その指がまだコマから放れないうちに、ニュウと腕をつきのばして、すでに応手をヒョイとさしている。木村の顔がサッと紅潮する。何を小癪な、その気ならば、というわけだろう、今度は升田の指がまだコマから放れぬうちに間髪を入れずコマをうごかす。両々全然盤上から手をひっこめず、ヒラヒラヒラと手と手がもつれて動くうちに、十何手かすゝんでいる。
こっちが何時間と考えて指すのに、ヘタの考え休むに似たりと間髪を入れずヒョイとさゝれる、からかわれているようで、腹が立つものだそうであるが、昔は木村前名人がこの手が得意で、相手にムカッ腹を立てさせたものだそうだ。升田八段にオカブをとられて、何を小癪な、とやり返す。将棋だからバタバタバタと手と手がもつれてコマが動くけれども、ケンカならパチパチパチと横ッ面をひっぱたき合ったところだ。
このアゲクが、大事の急所で慎重な読みを欠き、升田ついに完敗を見るに至ったが、誤算に気付いた升田の狼狽、サッと青ざめ、ソンナお手々がありましたか、軽率のソシリまぬかれず、これは詰みがありますか、ガク然として、自然にもれる呟き、こうなると、相撲と同じようにカラダで将棋をさしてるようなもの、ハッとかゞみ、又、ネジ曲げ、ネジ起し、ウヽと唸り、やられましたか、と呻き、全身全霊の大苦悶、三十一分。勝負というものは凄惨なもの
前へ
次へ
全5ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング