れた名人戦の第七局。その対局で彼は名人位を失つたのである。私はその対局をツブサに見てゐた。記録係までウンザリして散歩にでるやうな木村の長考の間も、ガランとした対局室に、常に私だけが二人を見まもつてゐたのである。
まことに木村は断末魔にもまさる切なさであつた。彼は夕食にも手をつけなかつた。もうその時から疲れきつてゐたが、夜の九時ころ、塚由が長考してゐる時、彼は記録係へ「応接間へよびに来てね」と云ひ残し、薄暗い応接間の肱懸《ひじかけ》椅子にグッタリのびてゐた。
零時ごろには、すでに敗北は明らかで、一秒ごとに名人位を去りつゝある苦悶がにじみでゝゐた。ともすれば、その苦悶に破綻しようとする苦痛を抑へて、彼は必死に気持を立て直さうとしてゐた。そのために、彼は顔面朱をそゝぎ、鬼の顔に、ふとい静脈が曲りくねつて盛りあがつてゐた。悲しい殺気であつた。彼はもう将棋を争つてゐたのではなく、名人位を失ふといふ切実な苦悶に向つて殺気をこめて悪闘してゐたのだ。
駒を投じて数時間後、朝酒に、彼はいくらか落ちつきを取り戻してゐた。
オレは時間に負けたんだ、と彼は云つた。オレは読んで読みぬくんだからね、と。
前へ
次へ
全54ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング