な手は、決して相手が読む筈のない手なんですよ」
「時間ぎれを狙うてるんや」
 と、升田がズバリと云つた。その時、木村の時間は、あますところ四十四分であつた。木村の読む筈のない手を指した。木村あますところ四十四分といふ時間を相手にしての塚田の賭博なのである。全然読まない手であるから、木村は面食ふ。そして改めて考へはじめなければならない。今まで木村が考へてゐた色々の場合が、みんな当てが外れたわけで、何百何十分かがムダに費されたわけである。そして、あますところ四十四分で、このむつかしい局面を改めて考へ直さなければならないのである。あます時間が少いので、木村はその負担だけでも混乱する。そして思考がまとまらぬ。時間は容赦なく過る。木村はあせる。塚田は、そこを狙つたのだ。
 私は今期の名人戦はこの一局以外に知らないが、塚田の戦法は、主として、木村の時間切れを狙ふ同一戦法であつたといふ話である。
 棋士一同アレコレ考へたが、先の予測がつかないやうであつた。ところが木村は、この時まつたく勝算があつたさうだ。この日の木村は、あくまで平静であつた。時間ぎれといふ、将棋そのものゝ術をはなれた塚田の奇襲は、ま
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