つたところへ、塚田が便所から戻つてきた。羽織をぬいだ木村の姿をチラと見て、彼も黙々と羽織をぬぎ、無造作にグチャリと投げだした。
 小笠原流のオバサンが冷水でしぼつた手拭ひを持つてきた。
 塚田は、また、長考をつゞける。
 木村、今度はヒソヒソ声ではなく、茶を一杯ください、とハッキリと云つた。山本七段が立つて、しばらくすると、毎日新聞の係りが私をよびに来て、
「一番むつかしいところださうですから、ちよッと席をはづして下さい」
 私はすぐうなづいて去つた。道場を出るところで、佐佐木茂索氏にバッタリ会つた。
「今、来たところでね。どうです、形勢は」
 と、見に行かうとするのを、これも注意をうけて、
「あゝ、さうですか。さうだらう。無理もない」
 と、私と一しよに控室へはいつた。二年前の名人戦はさうではなかつたが、この名人戦は、むつかしいところへくると、見物人に退席してもらうことになつてゐたのである。
 控室へ行くと、佐佐木氏が、
「どうです。君の予想は。どつちが勝ちますか」
「木村ですね」
 私は即坐に答へた。
「木村の落ちつきは大変なものです。あんなに平静な木村の対局ぶりは見たことがありま
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