え、さう思つたゞけです」
 と、言葉を濁した。彼はその日の世話係の一人であつた。
 五手目が木村七六歩。ここに、三十三分使つた。たつた八時間の持時間に、いつも終盤時間ぎれで苦しむ木村が、こんなところで三十三分も考へるのは、をかしい。彼は心の平静をとりもどすために、三十三分を浪費したのだらうと私は思つた。木村はギッチョらしい。左手で駒の曲つてゐるのを直してみたり、酔つ払ひのやうにグッタリとキョーソクにもたれて四十度ぐらゐも傾いてボンヤリ天井をむいてタバコをふかしてゐる。落付かう、落付かう、と努力してゐるのだらう。そして実際に、この三十三分のムダ使ひによつて、その後の彼は一手ごとに延び延びと落付いてきた。今まで見た彼の対局のうちで、この日ほど彼の心が平静だつたのを私は見たことがない。
 三二金、七七角、三四歩、七八銀、七七角成、仝銀、二二銀、四八銀、三三銀、七八金、六二銀、六八王、六四歩、四六歩、七四歩、四七銀、
 ここまではノータイム。塚田はじめて、三分考へた。袴の中へ両手をつッこんでキチンと上体を直立させてゐる。はじめから終盤のやうに神経質である。徹夜で指しきる将棋は夜が更けて終盤近く
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