て先の変化で、下手からは六三金と打ちこむ手がある。大山はこのあたりで、も一つ控えて、上手の銀の打ちこみを防ぐことを主として考へてゐたやうである。この方法で、大山の通りに行くと、木村必勝の棋勢となつてしまふのである。
このへんの細いことは無論私には一向にわからない。わからなくつて書いてゐるのだから、私自身もバカ/\しいが、まア、怒らずに読んで下さい。間違つてゐても、責任は負ひません。大山は木村に近い棋風だから、木村のいゝ将棋になるのだと倉島竹二郎がいふ。そして、升田は大山の気付かぬ手を指してゐるぜ、といふ。それが三八銀と打ちこんで飛車に当てる手であつた。
ところが、これも八段連が考へてみると、飛車が七九へ逃げる。銀が二三へ成る。角が五九へ逃げて、つゞいてこの角が七七へ廻ることになると、やつぱり木村がいくらかいゝといふ話だ。塚田の成銀が遊び駒になる上に、この角が敵王のコビンに当る急所を占めるからである。
ところが原田八段は、この当りを消すために先づ六六歩、同歩と歩をつきすてゝ一歩呉れておくことを考へてゐた。そして、かうなると、まだ形勢は不明で、わからん、と云つてゐた。
これを教へてもらつて控室へ戻つてくると、大山、土居、金子に升田も一枚加はつて、今原田から教はつてきたと同じことに一同がちやうど気がついたところであつた。
「何や分らん。もう、知らん」
升田は目の玉をむいてニヤリとして、
「オレ、ちよッと、ねむりたうなつた」
とキョロ/\あたりを見廻したが、敗残兵のやうなのが五六人、右に左に入りみだれて隅の方でねむつてゐるから、場所がない。然し、彼は元気がよく、眠りに執念してゐる目付きでもなかつた。
そこへ、八十三分の長考が終り、塚田の指手が報らせてきた。
六六歩。
まさしく原田の読んだところ。そして又、他の八段も今しもそれに気付いたところだ。控室に、ワッと、どよめきが、あがつた。木村はそれをノータイムで、同歩、ととつてゐるのである。
「塚田名人、強い」
升田が我が意を得たりと、ギロリと大目玉をむいて、首をふつた。それだけでも、ほめ足りなくて、
「ウム、強いもんやなア。この線、読みきつたんや」
と、指で盤を指して、すぐ引つこめた。つまり、塚田が読み切つたといふ、この線、を指し示したわけだが、四筋だか、七筋だか、六筋だか、人垣に距てられてゐた私には分らなかつた。
「なんぼうでも、手はでゝくる。きはまるところなしぢや」
と、土居八段が、もう研究がイヤになつたか、大きく叫んで、ねむたうなつた、研究はヤメぢや、といふ意志表示をやつた。そのとき、十二時五分前だ。
持ち時間があといくらもない木村が、又、長考にはいる。八段連の研究によれば、いよいよ四筋の戦ひとなり、塚田が三八へ銀を打つて、木村の飛角が逃げる段どりとなるのである。この筋を最も早く見出した原田によれば、形勢不明、戦ひはその先だといふことである。
某社の人が私のところへゼドリンをもらひにきたが、ちよッと声をひそめて、
「坂口さん、今、木村前名人がフラフラと便所へ行つてますがね。ひとつ、前名人にもゼドリンを飲ませてくれませんか」
「疲れてゐますか」
「えゝ、なんだか、影みたいにフワフワと歩いて、ちよッと痛々しいですよ」
「さうですか。ぢやア、飲ませませう」
当年四十五才の木村は、夜になると、疲れがひどい。午前二時の丑ミツ時が木村の魔の時刻と云はれて、十二分の勝ち将棋を、ダラシなく悪手で自滅してしまふのである。今期名人戦の第一局がその一例で、かうボケちやア、木村はダメだと私が思ひこんでゐたのは、そのためだ。かうなると、肉体力は勝負の大きな要素である。
私は一年半ほど前に、木村にゼドリンを飲ませて、勝たせたことがあつたのである。例の名古屋に於ける木村升田三番勝負である。木村の疲れが痛々しいので、夕食後にゼドリンを服用させた。そして、木村はこの対局に勝つた。翌朝彼は、どうも、あの薬は、よく利きますが、あとが眠れなくつて、と、目をショボ/\させてゐたものである。碁将棋の連中ぐらゐ、この薬を用ひるに適した職業はない筈であるのに、妙に、誰も知らないから、不思議である。彼らの対局は一週聞か十日に一度であるから、習慣になることもない。そして彼らは、云ひ合したやうに、深夜の疲れを最も怖れてゐるのである。そのくせ、この薬を誰も知らない。
さすがに若さは別で、四十ちかい連中以上が十二時すぎるとノビてしまふのにひきかへ、大山、原田、碁の藤沢などは、翌朝の五時になつても、目がパッチリと、疲れの色がほとんどなかつた。
その大山でも私のゼドリンの小箱を物珍しさうに手にとつて眺めて、
「これのむと、ほんとに、ねむくないのですか」
「さうです。だけど、君や藤沢君の顔を見ると、ちッとも疲れ
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