たやうぢやないね。対局になると、やつぱり、疲れるの?」
「ええ、十二時前後から、頭脳がにぶつて、イヤになります」
彼はいつも話声が低く静かである。そして、
「これは、いくらですか」
と、いかにも大阪人らしく、値段をきいた。
「この薬はね。もう薬屋では販売できなくなつたから、お医者さんから貰ひなさい。名人戦だの、挑戦者決定戦だのと、大切な対局だけに使ふ限り害もなく、まるでその為にあるやうな薬だから」
と、私は大山に智恵をつけておいた。私は実際、彼らこそ、この薬を服用すべき最も適した職業の人と考へてゐるのである。名人戦といへば死生を賭けたやうなものでもあるし、覚醒剤の必要な対局は、A級棋士で年に十回、挑戦試合が五回、それだけしかないのである。我々のやうにノベツ用ひて仕事をするから害になるが、彼らは年にせゐぜゐ二十回、そしてそこには、元々、死生の賭けられてゐる性質の対局なのだ。
私は某社の人にうながされて、廊下へでゝ、便所から戻つてくる木村を待つた。木村が現れた。フラリ/\と千鳥足、ヂッと一つどころに坐りつゞけるせゐもあらうが、対局棋士の歩行は自然そんな風に見える。
私は彼に寄りそつて、
「この前、名古屋でのんだ薬、のみますか」
と、きくと、彼は急にニヤリとして、
「えゝ、ありがと。実はね。ボク、お医者から、クスリをもらつてきたんです」
さう答へて会釈して行き過ぎたが、ふりむいて、又、ニコニコ笑ひ顔をした。
「たぶん、坂口さんのと、同じクスリぢやないかしら」
云はれてみると、踏段を登つて道場へ去る彼の足どりはシッカリしてゐた。又、私に笑ひかけた彼の目は澄んでをり、たしかに彼の顔には疲労が現れてゐなかつた。
モミヂの二階で、塚田升田が異口同音に云つた。第三局は別人だつた、と。木村は決してボケてゐない、と。この次を見てゐろとばかり驚くべき気魄と闘志であつたといふ。私はそれを思ひだした。
蓋《けだ》し、近代戦である。これも、まさしく一つの戦場なのである。爆撃下にもおとらぬ死闘であつた。年齢的に劣勢な木村が、覚醒剤を用ひたとて、咎める方が間違つてゐる。さすがに勝負師の大山が、この薬に並々ならぬ関心をいだいたのは当然であらう。
木村、四十九分考へて、四五金。ノータイムで、同桂、四四歩。ここのあたりは控室の合計五十四段が先刻予想してゐた通りである。
木村、二十二分考へて、六三金。以下ノータイムで、四五歩。六四金。同銀。ここのところも、控室の予想の通り。
そッと道場へ行つてみる。もう、翌朝の一時半になつてゐる。戸外は風雨であるが、薄暗い道場の中央に、屏風がこひの中だけが照りかゞやいて、何一つ物音もなく、ヒッソリしてゐる。木村が手拭で顔をふく。塚田もふく。塚田はそれから眼鏡をとつてジュバンの袖でふいてゐる。木村がアグラをかいた。
ほかに見物人はゐないけれども、たつた一人、異様の人物が端坐してゐる。済寧館の武道教師とおぼしきヒゲのある人物で、坐り方が武術家独特のものである。木綿のゴツゴツした着物に袴をはいて、屏風の中の光の下から二三間離れた薄暗がりに微動もせず端坐してゐるのである。自然体であるけれども、肩がピンと四角にはつて、腰が落ちてをり、彫刻のやうにこの場に似合つてゐるのである。まるでハラキリ見届け役といふやうであつた。
木村が猛烈な力をこめてパチリと駒を叩きつけたのは、ちやうど一時半だつた。三七角(二十四分)これも控室の五十四段が見てゐた手である。
この次の手が、運命の一手であつた。
私は控室へ戻つてゐた。五十四段の棋士の中からも落伍者がでゝ、土居八段がねころんでゐる。若い者の天下である。土居八段に代つて、金子八段が大山八段と盤に向つて研究してゐる。碁のまるまるとふとつた藤沢九段が、全然ねむけのない澄んだ目を光らせて、熱心に説明をきいてゐる。ねむる、ねむる、と云ひながら、目を光らせて、のぞきこんでアレコレ言葉をはさんでゐるのは升田八段である。
二時十分であつた。運命の手の報らせが来たのは。
塚田、五二桂(三十九分)
棋士たちが、アッといふ声をあげた。
「エ? ナニ、ナニ?」
大声をあげて、人をかきわけたのは升田であつた。
「五二桂? ホウ。そんな手があつたか」
誰一人、予想しない手であつた。升田の目が、かゞやいた。妙手か悪手かわからないが、人々の意表をついたこの一手に、彼は先づ感嘆を現した。
意表をつかれた棋士一同は、にわかに熱心に駒をうごかしはじめた。
「無筋の手や」と、升田。
「無筋ですな」と、金子。
どういふ意味だか、私には分らない。私は金子八段にきいた。
「無筋の手ッて、どういふことですか」
「つまりですな。相手の読む筈がない手です。手を読むといふのは、要するに、筋を読んでゐるんです。こん
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