のを認めて、坂口さんにも、とオバサンに言ふ。木村、便所へ立つ。私へも茶菓がきたので、私はゼドリンをのむ。どうも、ねむいから、仕方がない。
私はこの二月以来ゼドリンを服用したことがない。アドルム中毒で精神病院へ入院して、退院以来、一般の発売も禁止されたし、これを機会に、覚醒剤も催眠剤も用ひない決心でゐた。けれども、この日は考へた。眠くなることが分つてゐるのである。ほかの参観人は将棋の専門家、又は、好棋家で、棋譜をたのしむ人たちであるから、控室で指手を研究して愉《たのし》んでゐるが、私は将棋はヘタクソだから、さうは、いかない。もつぱら対局者の対局態度を眺めてゐるのが専門で、だからこそ、ほかの見物人はみんな控室でワア/\やつてゐるが、私だけは盤側を離れたことがないのである。哀れな見物人である。指手の内容が分らないのに、二時間の長考にオツキアヒをしてゐるのだから、バカみたいなもので、ねむくなるのは当然だ。仕方がないから、覚悟をきめて、ゼドリンを持つてきた。昔、たくさん買ひこんだゼドリンが、まだ残つてゐたのである。
塚田、ぼんやり立つて、足をひきづるやうに便所へ去つた。もう四十分ちかく考へてゐる。塚田が立ち去ると、木村は記録係に向つて、ニコニコした笑顔で、
「濡れたタオルがあるといゝね」
と相談をもちかける。旅館だつたら、そんな気兼ねもいらないだらうが、皇居の中では事面倒で、記録係も立ち上つてウロウロして、
「あるでせうか。忘れまして」
と悲しさうな顔である。
「あゝ、いゝよ。なければ、いゝよ」
木村は笑顔で慰める。年若い方の記録係が不安な面持で去つた。
「対局は冬がいゝね。夏は暑くて」
記録係の山本七段に話しかける。木村の笑顔は澄んでゐる。彼の心の平静さが、よく現れてゐる笑顔である。私は彼と一しよに名古屋へ旅をしたが、汽車の中では、彼はこんな風に平静で、いつも静かに笑つてゐる男であつた。然し、対局の最中に、こんなに静かに冴え冴えとした笑ひをうかべて、気楽に話してゐるのを見たことはない。
非常にむし暑い日であつた。外はどうやらポツポツ雨がふりだしてゐる。湿気の深い暑さなのである。山本七段と私が立つて、道場の窓をあけてみた。いくらか涼気がはいつてくる。
「ねえ。羽織、とらうか」
彼は私に笑ひかけた。
「その方がいゝでせう」
と私は答へた。
木村が羽織を脱ぎ終
前へ
次へ
全27ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング