つたところへ、塚田が便所から戻つてきた。羽織をぬいだ木村の姿をチラと見て、彼も黙々と羽織をぬぎ、無造作にグチャリと投げだした。
 小笠原流のオバサンが冷水でしぼつた手拭ひを持つてきた。
 塚田は、また、長考をつゞける。
 木村、今度はヒソヒソ声ではなく、茶を一杯ください、とハッキリと云つた。山本七段が立つて、しばらくすると、毎日新聞の係りが私をよびに来て、
「一番むつかしいところださうですから、ちよッと席をはづして下さい」
 私はすぐうなづいて去つた。道場を出るところで、佐佐木茂索氏にバッタリ会つた。
「今、来たところでね。どうです、形勢は」
 と、見に行かうとするのを、これも注意をうけて、
「あゝ、さうですか。さうだらう。無理もない」
 と、私と一しよに控室へはいつた。二年前の名人戦はさうではなかつたが、この名人戦は、むつかしいところへくると、見物人に退席してもらうことになつてゐたのである。
 控室へ行くと、佐佐木氏が、
「どうです。君の予想は。どつちが勝ちますか」
「木村ですね」
 私は即坐に答へた。
「木村の落ちつきは大変なものです。あんなに平静な木村の対局ぶりは見たことがありませんよ。気持が透きとほるやうに澄んでゐますね。アベコベに、塚田は、堅くなつて、コチコチだ」
 茂索さんは、ふうン、といふ顔をした。彼は塚田に賭けてゐたのださうである。

          ★

 こんなに賑やかな控室風景は珍しい。将棋の八段が〆めて五十何段つめてゐるところへ、碁の藤沢九段、素人五段安永君など勝負師がより集つて、碁将棋に余念もない。遊び事に専門の方をやりたがらぬのは自然の情で、将棋指しが面白さうにのぞきこんでゐるのは碁の方であり、碁打ちは将棋をのぞきこんでゐる。
 そのうちに、面白い勝負がはじまつた。大山八段と二枚落ちで指しわけた安永五段が、よし、碁でこい、と七目おかせて、やりだしたのである。大山八段は、碁の射ち廻しは私と同じ程度のやうである。違ふとこをは、彼が天成の勝負師だといふことである。安永五段は下手名人と自称し、下手をゴマ化すのに妙を得てゐる。そのゴマ化しに大山八段はかゝらない。ヂッとひかへて、ムリを打たない。よく置石を活用してガッチリと押して行くから、安永五段は文句なしに二局やられてしまつたのである。
「大山に七目おかせて、安永が勝つもんか。てんで勝負にもなら
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