つた。そして媚びる肉体が五十を越えた男であり、媚びられてゐる肉体が三十七の女であるといふことに異様なものを感じた。谷村は媚びる岡本に憐憫と醜悪だけを感じたが、媚びられてゐる素子の肉体に嫉妬をいだいた。
岡本の媚態は本能的なものに見えた。それは亦、素子の本能に話しかけ訴へかけてゐるのであつたが、語られてゐる金銭の哀願よりも、無言の媚態がより強烈に話しかけてゐることを見出した。金談は媚態の通路をひらくための仕掛にすぎないやうでもあつた。
岡本は人の常時につとめて隠さるべきもの、羞恥なしに露はし得べからざるもの、弱点をさらけだしてゐるのであつた。人の最後の弱点がともかく魅力であり得ることを、谷村は常に怖れてゐた。谷村が素子に就て怖れ苦しむ大きな理由はそこにつながるものであつた。岡本の媚態には、その弱点をむきだしにした卑しさがほのめいてゐた。
その岡本に対処する素子は概ね無言であつた。冷然たる位の高さを崩さなかつた。純白な気品があるやうだつた。もとよりそれが当りまへだと谷村は思ふ。岡本の狂態が今の素子にさしたるものでないことは当然ではないか。そして素子は岡本の媚態に谷村以上の嫌悪を感じ、不快をこらへてゐる筈だつた。それを岡本が知つてゐる。岡本は「今」の素子を問題にしてはゐないのだ。彼の媚態が話しかけてゐるのは、素子のどん底の正体だつた。それ自身羞恥なき肉体自体の弱点だつた。そして谷村が岡本の媚態から感じるものも、岡本の媚態でなしに、そこから投射されてくる素子の羞恥なき肉体だつた。谷村はその肉体への嫉妬のために苦しんだ。正視しがたくなつてきた。
素子の落着きは冴えてゐた。
「奥様に打開けてお話しになりましては? そして御一緒に大木さんをお訪ねになりましては、月賦でゞも支払ふことになさいましては?」
「それがねえ、大木は人情の分る男ではありませんよ。耳をそろへて金を持つてこいと言ふにきまつてゐるのですから」
素子は頷いた。
「私どもに買ひ戻せる金額ではございません。先生は私どものくらしむきを御存知の筈ではございませんか」
「いゝえ、奥さん。買ひ戻していたゞく上は、女房に事情を明して、品物は必ず奥さんに保管していたゞくですよ。実際の値打は三万を越える品物ですよ。あの大木の奴が一万五千だすのだから、どれだけの値打のものだか推して分るぢやありませんか」
「先生はお金持ね。私どもは三千円のお金なんて、もう何年も見たことがないわ」
素子は三千円の金の包みを岡本に返して、立上つた。そしてキッパリ言つた。
「金額だけの問題ではございません。私どもは先生の正しいお役に立つことにだけ手伝はせていたゞきたいと思つてゐます」
そのまゝ素子が立去る気配を示したので、岡本はよびとめた。
「奥さん」
岡本の顔がくしや/\ゆがんだ。岡本は素子をよびとめるために左手を抑へるやうに突きだしてゐた。その手がゆるやかに戻つて、なぜだか自分の顎を抑へた。同時に右手で腹を抑へた。そして顔をグイと後へ突きのけるやうな奇妙な身振りをした。すると突然ヒイといふ声をたてゝ泣きふしてゐた。
あさましい姿であつた。素子はそれを見すくめてゐたが、すぐ振向いて立去つてしまつた。谷村には一瞥もくれなかつた。
★
岡本の女のひとりに藤子といふ人があつた。彼女も昔は岡本の弟子で、一時は喫茶店の女給などもしてゐたが、岡本と手を切つてのち、今では株屋の二号になつてゐる。谷村の散歩の道に住居があるので、時々立寄ることがあつた。五尺四寸五分とかの良く延びた豊艶な肉体美で、絵を書くよりもモデルの方が適役だと絵描き仲間に噂のあつた人である。
この人の立居振舞にはどことなく下卑《げび》た肉感がともなうので、素子は谷村が足繁く訪ふことに好感を持たなかつた。あなたもエロだわと、谷村をひやかしたり、嫌つたりしたのである。ところが、谷村はあべこべに、肉感を露骨にあらはしてゐる女であるから、藤子に気がおけず、のび/\と話ができるのであつた。谷村は男同志でも言へないやうな露骨な話を気楽に藤子に言ふことができた。藤子の立場も同様で、男女の垣にこだはる必要がなかつたのである。
藤子からきいた話に岡本の失恋談があつた。岡本のお弟子の一人に美貌の令嬢があつた。冷めたい感じの、しつかりした人であつたから、岡本も手をだしかねてゐた。ところがこの令嬢が婚約したといふ話をきいたとき、おまけに相手の男が三国一の聟がねで幸福な思ひで一ぱいらしいといふ註釈がついてゐるのに、岡本は急に思ひたつて口説きにでかけた。わざと無性髭《ぶしょうひげ》をぼうぼうさせ、おまけに頭から顔の半分を繃帯でつゝんで、杖に縋つて呻きながら出かけて行つたさうである。そして令嬢に愛の告白をしたところが、令嬢はさすがにしつかりしてゐて、私は戯談《じょうだん》がきらひでございます、お引とり下さいませ、とハッキリ言つたさうである。
岡本はその話を藤子に語つてきかせて、成功の見込みのないことが分つてゐたから、かへつてフラ/\口説く気になつたんだ、かういふ惨めな口説き方をしてみることに興味を感じたまでのことさ、と言つたさうだ。
岡本は性格破産者で、根柢的に破廉恥な人であつた。けれども谷村は世間的には最も指弾さるべき岡本の性癖に於て、却つて心を惹かれ、ゆるす気持が強かつた。たとへば傷もないのに顔中に繃帯をまき無性髭をはやして見込みのない令嬢を口説きにでかけるなどゝいふことが、善悪はともかく、生半可な色事師にはやる気にならない馬鹿らしさがあり、通俗ならぬ試みに好奇心を賭けてみる行動の独創性があるのであつた。ともかく、こゝらあたりは持つて生れた芸術家の魂で、汚らしくても、面白さがある、と谷村は思つてゐた。
この日の一万五千円の金談も、繃帯の訪問と同じことで、始めから仕組まれた芝居のやうに谷村には思はれた。
一万五千円といふ金額が抑々《そもそも》突飛きはまるものでこの金談のとゝのはぬことは岡本自身知りすぎてゐるにきまつてゐる。金の必要の理由に就ても、しどろもどろで、一向に実感がない。実感がこもつてゐるのは媚態だけであつた。
「ねえ、素子。先生の話はをかしいね。一万五千円の入用だなんて、作り話ぢやないかね。出来ない相談だといふことは分りきつてゐるぢやないか。然し、作り話だとしてみると、なぜこんな馬鹿らしいことをやる必要があるのだらう」
素子はそれに答へてきつぱりと言つた。
「あなたが先生をやりこめたからよ」
思ひがけない答であつた。
「なぜ? 僕が先生をやりこめたのが、なぜこの馬鹿げた金談の原因になるのかね」
「先生はいやがらせにいらしたのよ。復讐に、こまらしてやれといふ肚なのよ、あなたが先生にみぢめな恥辱をあたへたから、うんとみぢめなふりをして私たちを困らしてやるつもりなのでせう」
「そんなことが有り得るだらうか。第一、僕たちは一向に困りはしないぢやないか」
「でも、人の心理はさうなのよ。みぢめな恥辱を受けるでせう。その復讐には、立派な身分になつて見返してやるか、その見込みがなければ、うんとみぢめになつてみせて困らしてやれといふ気になるのよ。復讐のやけくそよ」
妙な理窟だが、一応筋は通つてゐた。さういふ心理も実際に有りうるに相違ない。
だが、岡本の場合、それが果して真実だらうか。先づ何よりも素子がそれを果して信じてゐるのだらうか。
素子は岡本の媚態を「みじめ」と言ふ。そして素子はみじめな男が何者に向つて話しかけてゐるか、話しかけられてゐる者が自分の中に棲むことを「今」は気付かぬのかも知れない。そしてたぶん今は気付かぬといふことが本当だらうと谷村は思つた。そして、今は気付かぬといふことの中に多くの秘密があることを見出したやうに思つた。
★
近所に住む大学生で、谷村夫妻に絵を見てもらひにやつてくる男があつた。仁科と云つた。絵の才能はもとよりのこと、絵の趣味すらもない男だ。たゞ物好きがあるだけで、マッチのペーパーを集めるやうな物好きで、絵をかき、それを見せにくるのである。今では大学を卒業して、官庁の役人になつてゐた。
絵は下手くそだが、画論だけは一人前で、執念深く熱論にふけり谷村を悩ますのだが、例の物好きで手当り次第に画論だの美学の本を読み耽るから雑然として体系はないが谷村を悩ますためには充分であつた。
仁科は身だしなみがよかつた。ポマードも入手難の時世であつたが、彼の毛髪は手入れよく光つてゐたし、ネクタイから靴の爪先に至るまで、煙草ケース、ライター、時計、ペンシル、パイプ、こまかな一々の持物にも何国の何製だの何式だのと語らせれば一々数万語の説明が用意されてゐる。それに反して心象世界の風物には色盲であり、心の風も、雲も、霧も、さういふものには気もつかず、気にもかゝらず、まつたく手入れがとゞいてゐなかつた。
「君は何のために絵をかくのだらうね。仁科君。人が写真をうつすには、記念のために、といふやうな目的があるものだがね。そして、記念とか、思ひ出のためにといふことは、下手クソな絵を書くよりは充分意味のあることさ。ところが、君の絵ときては、記念のためでも思ひ出のためでもないことが明かなやうだが、違ふだらうか。そして、自然が在るよりも大いにより汚く、無慙きはまる虚妄の姿に描き上げてゐるのさ。これは君の美学では、どういふ風に説明するのかね」
谷村は仁科の顔を見るたびに、からかはないといふことはない。仁科は焦つてムキになつて画論をふりかざしてくるのであるが、谷村はまともに受け止めることがない。体をひらいて、横からひやかす戦法を用ひるのだつた。
「日本の諺に――諺だか何だか実は良く知らないのだがね、犬が西向きや尾は東、といふ名言があるぜ。君の美論にどれほどの真理がこもつてゐるか知らないけれど、この寸言はともかく盤石の真理ぢやないか。ところが君は、犬のシッポの先をちよつと西へ向けて、御覧の通り犬のシッポの先は東の方に向いてはゐないと言ひ張るのさ。君の画論の正体なるものは、ざッとかういふ性質のものではないかね」
谷村はこの種の論法に生来練達してゐた。仁科に対しては心に余裕があつたから、この論法は仁科の焦りにひきかへて辛辣さを増すばかりであつた。
谷村にやりこめられる仁科は、素子に媚びた。
仁科の媚態は、谷村の毒舌の結果の如くであつたから、谷村は多くのことを思はずに過してきたのである。岡本の媚態を見るに及んで、谷村には思ひ当ることがあつた。
仁科の媚態は岡本の如く卑しくはなかつた。仁科は弱点をさらけだしてはゐなかつた。身を投げだしてはゐなかつた。元来素子と仁科には十歳以上年齢のひらきがあるから、媚びることに一応の自然さがあつたのである。
精神的に遅鈍な仁科は本来肉感的な男であつた。彼の態度のあらゆるところに遅鈍な肉感が溢れてゐたから、特に一部をとりあげて注意を払つてみることを谷村は気付かずにゐた。仁科の媚態にも、岡本と同じものがあつた。それは素子の肉体に話しかけてゐることだ。岡本の媚態によつて、谷村はそれを発見した。
そのとき谷村は更に意外な発見をつけたした。それは蛙の正体に就てであつた。
谷村は思つた。この数年来、仁科に対して見せてゐる谷村の態度が、素子の反感をそだててゐたのではなかつたか、と。谷村は常に仁科をやりこめる。その作品を嘲笑する。みぢめな思ひをさせてゐる。そして怒らせて悦に入つてゐる。素子はその谷村にひそかな憤懣をよせてゐた。そして、やゝ似た事態が岡本の場合に起つたとき、岡本に仮託してかねての憤懣を吐きだしてゐるのではないかと。
かゝる憤懣をひそかに燃す素子は、いつか仁科を愛してゐるのであらうか、と谷村は思ふ。
素子は谷村を精いつぱい愛してをり、昔も今も変りはなかつた。変つたのは、年をとり、新鮮味が衰へて、愛情でなしにいたはりを、献身でなしに束縛を意識しがちであるといふことだけだつた。谷村は素子の魂の純潔を疑る思ひは微塵もなく、長い旅路の大きな感謝があるだけだつた。
あらゆ
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