た。
「日本の諺に――諺だか何だか実は良く知らないのだがね、犬が西向きや尾は東、といふ名言があるぜ。君の美論にどれほどの真理がこもつてゐるか知らないけれど、この寸言はともかく盤石の真理ぢやないか。ところが君は、犬のシッポの先をちよつと西へ向けて、御覧の通り犬のシッポの先は東の方に向いてはゐないと言ひ張るのさ。君の画論の正体なるものは、ざッとかういふ性質のものではないかね」
 谷村はこの種の論法に生来練達してゐた。仁科に対しては心に余裕があつたから、この論法は仁科の焦りにひきかへて辛辣さを増すばかりであつた。
 谷村にやりこめられる仁科は、素子に媚びた。
 仁科の媚態は、谷村の毒舌の結果の如くであつたから、谷村は多くのことを思はずに過してきたのである。岡本の媚態を見るに及んで、谷村には思ひ当ることがあつた。
 仁科の媚態は岡本の如く卑しくはなかつた。仁科は弱点をさらけだしてはゐなかつた。身を投げだしてはゐなかつた。元来素子と仁科には十歳以上年齢のひらきがあるから、媚びることに一応の自然さがあつたのである。
 精神的に遅鈍な仁科は本来肉感的な男であつた。彼の態度のあらゆるところに遅鈍な肉感
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