の時世であつたが、彼の毛髪は手入れよく光つてゐたし、ネクタイから靴の爪先に至るまで、煙草ケース、ライター、時計、ペンシル、パイプ、こまかな一々の持物にも何国の何製だの何式だのと語らせれば一々数万語の説明が用意されてゐる。それに反して心象世界の風物には色盲であり、心の風も、雲も、霧も、さういふものには気もつかず、気にもかゝらず、まつたく手入れがとゞいてゐなかつた。
「君は何のために絵をかくのだらうね。仁科君。人が写真をうつすには、記念のために、といふやうな目的があるものだがね。そして、記念とか、思ひ出のためにといふことは、下手クソな絵を書くよりは充分意味のあることさ。ところが、君の絵ときては、記念のためでも思ひ出のためでもないことが明かなやうだが、違ふだらうか。そして、自然が在るよりも大いにより汚く、無慙きはまる虚妄の姿に描き上げてゐるのさ。これは君の美学では、どういふ風に説明するのかね」
谷村は仁科の顔を見るたびに、からかはないといふことはない。仁科は焦つてムキになつて画論をふりかざしてくるのであるが、谷村はまともに受け止めることがない。体をひらいて、横からひやかす戦法を用ひるのだつ
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