さういふ心理も実際に有りうるに相違ない。
だが、岡本の場合、それが果して真実だらうか。先づ何よりも素子がそれを果して信じてゐるのだらうか。
素子は岡本の媚態を「みじめ」と言ふ。そして素子はみじめな男が何者に向つて話しかけてゐるか、話しかけられてゐる者が自分の中に棲むことを「今」は気付かぬのかも知れない。そしてたぶん今は気付かぬといふことが本当だらうと谷村は思つた。そして、今は気付かぬといふことの中に多くの秘密があることを見出したやうに思つた。
★
近所に住む大学生で、谷村夫妻に絵を見てもらひにやつてくる男があつた。仁科と云つた。絵の才能はもとよりのこと、絵の趣味すらもない男だ。たゞ物好きがあるだけで、マッチのペーパーを集めるやうな物好きで、絵をかき、それを見せにくるのである。今では大学を卒業して、官庁の役人になつてゐた。
絵は下手くそだが、画論だけは一人前で、執念深く熱論にふけり谷村を悩ますのだが、例の物好きで手当り次第に画論だの美学の本を読み耽るから雑然として体系はないが谷村を悩ますためには充分であつた。
仁科は身だしなみがよかつた。ポマードも入手難
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