老人の餌食にすらなるのではあるまいか、と。恋愛などいふ感情の景物は有つても無くても構はない。たゞ肉体の泥沼へはまりこんで行くだけではないのか。するとそのとき、素子のひろい心だのあたゝかい思ひやりなど、それは烏がさした孔雀の羽のやうにむしりとられて、烏だけが、肉体といふ烏だけが現れてくるのではないか。
 俺は恋がしてみたい。肉体といふものを忘れて、たゞ魂だけの。そのくせ盲目的に没入できる激烈な恋がしてみたい。ならうことなら、その恋のために死にたい、と谷村は時に思つた。もうその恋も、肉体のない恋ながら体力的にできなくなつてしまひさうな哀れを覚えた。
 そして谷村は、そんな時に、信子のことを考へた。

          ★

 素子に話しかける岡本は、哀訴のたびに、媚びる卑しさを露骨にみせた。弟子に対する師の矜持《きょうじ》は多少の言葉に残つてゐたが、それはむしろ不自然で、岡本自身がそれに気付いてまごつくほどになつてゐた。年下の男が年上の女に媚びる態度であつた。
 それを見てゐる谷村は、別の意味に気がついた。それは一人の魂が媚びてゐるのではなく、一つの男の肉体自体が媚びてゐる、といふことだ
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