実に苦しむ怖れもなく、谷村の気持には余裕があつた。岡本の話は正気だらうかと疑つた。
万事につけて常とは違ふものがあつた。先づ第一に、岡本は素子に多く話しかけてゐるのである。素子を通して谷村に言ひかける素振ではなく、主として素子に懇願し、その衷情を愬《うった》へた。谷村にやりこめられたせゐばかりではないやうだつた。岡本の話の中に濁りがあつた。岡本の話も態度も何か秘密の作意の上に組立てられた一贋物のやうな感じがした。
それにしても岡本が主として素子に話しかけてゐるといふのは谷村に皮肉な興を与へた。谷村は素子の言葉を忘れたことがなかつた。素子はなぜ蛙の代弁をしなければならなかつたか。そして、素子自身は蛙の突飛な哀願にどういふ態度を示すだらうかと谷村は興にかられた。
素子は感情を殺してゐるから理の勝つた人に見えたが、事実はキメのこまかな感受性を持つてゐて、思ひやりと、広い心をもつてゐた。なるべく人を憎んだり侮つたりしないやうにと心懸ける人であつた。
素子は岡本にたのまれて、岡本の女の面倒を見たことがあつた。その娘も岡本の弟子の一人で、岡本の子供を生み、家を追はれて、自殺をはかり、子供は
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