然さで事務的な処理も行ふのだ。かゝる情慾の行ひが素子の人生の事務であり、人生の目的であり、生活の全てであると気付くのはその時であつた。谷村は目をそむけずにゐられなくなる。彼は一人の情慾と結婚してゐる事実を知り、その動物の正体に正視しがたくなるのであつた。然し素子はそむけられた谷村の目を見逃す筈はなかつた。その眼は憎しみの石であり、然し概ねあきらめの澱みの底に沈んでゐた。
素子は素知らぬ顔だつた。谷村の痩せた額に噴きだした疲労の汗をふいてやるのもその時だつた。彼が憎めば憎むほど、いたはりがこもるやうだつた。それはちやうど、坊やはいつもこの時に拗ねるのね、とからかふ様子に見えた。それに答へる谷村は益々露骨に首を捩ぢまげ、胸をひき、身をちゞめる。その上へのしかゝるやうにして、そむけた頬へ素子が濡れた接吻を押しつけるのもその時であつた。
素子とは何者であるか? 谷村の答へはたゞ一つ、素子は女であつた。そして、女とは? 谷村にはすべての女がたゞ一つにしか見えなかつた。女とは、思考する肉体であり、そして又、肉体なき何者かの思考であつた。この二つは同時に存し、そして全くつながりがなかつた。つきせぬ魅力がそこにあり、つきせぬ憎しみもそこにかゝつてゐるのだと谷村は思つた。
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素子は谷村の揶揄に微塵もとりあふ様子がなかつた。けれども素子は態度に激することのない女であつた。腹を立てゝも静かであり、たゞ顔色がいくらかむつかしくなるだけだつた。
「あなたは先生をやりこめた覚えはないと仰有るでせう。そして反撥したゞけと仰有るのでせう。子供の話にあるぢやありませんか。子供達が石投げして遊んでゐると蛙に当つて死ぬ話が。子供達には遊びにすぎないことが、蛙には命にかゝはることなんです」
と素子はつゞけた。
「私にも先生の肚は分つてゐます。誰にだつて分りますよ。思慮の浅い人なんですから。お金が欲しくて堪らなければ誰だつてあさましくもなるでせう。藁に縋りついてゞも生きたいものだと言ひますから、なけなしの肩書ででも、消えさうな名声でも、ふり廻せるものはふり廻して借金の算段に使ふのも仕方がないぢやありませんか。、野卑な魂胆しかないくせに芸術家然とお金をせびられては誰だつて厭気ざさずにゐられません。私は女ですから人のアラは特別癇にさはります。先生の助平たらしい顔を見るのも厭ですよ。芸術家然とをさまる時のあのチョビ髭はゾッとするほど厭なんです。けれども、それはそれですよ。それに向つて石を投げる必要は毛頭ないぢやありませんか」
素子は社交的な女ではなかつた。絵の勉強もしたが、作家特有の華美なるものへの志向も顕著ではない。どちらかと云へば地味な、孤独な性格で、谷村と二人だけで高原の森陰とか田園の沼のほとりで原始的な生活をして一生を終りたいと考へ耽るやうな人であつた。
この性癖は根強いものだと谷村は思つてゐた。病弱な谷村とすゝんで結婚したことも、その病弱が決定づけてゐる陰気な又隠者的な生活に堪へてゐるのも、素子の底にこの性癖があるからで、その自然さを見出し又信じ得ることは谷村の慰めであり、安堵であつた。ほかの男と生活をするよりも、自分とかうしてゐることがこの人の最も自然な状態なのだと信じ得るほど心強いことはない。谷村の現実を支へそして未来へ歩ませてゐる安定の主要なものが、もはやこんな小さな惨めなところにある、と谷村は信じ、そしてそれを悲しむよりも懐しむやうになつてゐた。
二人は稀に口論めくこともあつたが、一方が腹をたてると、一方が大人になつた。二人だけの現実をいたはることでは、素子は谷村に劣らなかつた。そして二人はどんなに腹の立つときでも決して本音を吐かなかつた。いたはりが二人を支へ、そしていたはられる自分を見出すといふことは不快をともなふものであるが、二人だけの場合に限つて、不快を感じることもなく、よし感じてもそれを別の方向へ向けたり流したりできるやうな融通がついてゐるのであつた。これでよいのだらうかと谷村は思ふ。これでよいのだらうと谷村は思ふ。これ以外には仕方がないと思ふ心があるからだつた。
「然し、なぜ君が蛙の代弁をしなければならないのだらう? 蛙自身が喋らないのに。そして、蛙は元々喋らないものだよ。蛙自身が喋りだすのは当事者の良心の中でだけさ」
素子はかすかに頷いた。分つてゐます、といふ意味であつた。よけいなことを仰有いますな、といふ意味だつた。
「あなたは先生の芸術家然とお金をせびるのが厭なのでせう。もともと、お金をせびられるのが厭なのです。お金を貸してあげることが厭なのです。あなたは私に比べればお金に吝嗇ではありません。ほかの方々に比べても、お金のことには淡白で、気の毒な方を助けてやりたい豊かな心もお持ちです。けれども、お金を
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