せびられるのが厭で、そのお金を出したくないのも事実でせう。そして、あなた御自身の問題といへば、そのことではありませんか。お金が惜しいなら、惜しいと仰有るがよろしいのです。厭なら厭と仰有るだけでよろしいのです。それをさしおいて、先生の弱点をあばく必要がありますか。それは卑怯といふものです」
 なるほど、その通りに違ひはない、と谷村は思つた。然し、それは谷村の自覚の上では軽微なものにすぎなかつた。
 別の生々しい思念が彼の頭に渦巻いてゐた。それは、なぜ素子は蛙の代弁をしなければならなかつたか、といふことだつた。
 なぜなら、こゝに明白な一事は、素子は蛙の代弁をしながら、蛙に同情してをらず、むしろ谷村以上の悪意と嫌悪を蛙によせてゐるからであつた。芸術家然とをさまるときの岡本のチョビ髭はゾッとするほど厭だと言つた。又、岡本の顔の穴は卑しいと言つた。その言葉には顔をそむけしめる実感があり、単純な毒気があつた。
 女の観察はあらゆる時に毒気の上に組み立てられてをり、そのくせ同時に十八の娘のやうに甘い夢想もあるのであつた。毒気は同情の障碍《しょうがい》となり得ず、愛情の障碍とすらなり得ぬのかも知れなかつた。けれども、素子の場合は、と谷村は思ふ、岡本に同情してはゐないといふ直感があり、それを疑る気持がなかつた。
 それにも拘らず、なぜ? まさか本当に俺を憎んでゐるのではないだらう、と谷村は考へる。まア、いゝさ。今に分るときがくるだらう、と谷村は思つた。
 谷村は身体の調子が又ひとしきり弱くなつてきたやうに感じた。そして、さういふ変調のかすかなきざしから、肉体の衰弱よりも、肉体の衰亡を考へるやうになつてゐた。すると必ず素子にひそかな憎しみを燃やすやうになつてゐた。それは素子の肉体に対する嫉妬であらうと谷村は思つた。そして、嫉妬する自分も、嫉妬せられる素子も、ともどもに悲しいさだめなのだと思ふ。だが、近頃は、自分が悲しいのは分る。然し、なんで素子が悲しいさだめであるものか、と疑りだす。俺も我がまゝになつたものだなと谷村は思ふが、なぜ我がまゝでいけないのか、我がまゝでいゝではないか、と吐きだすやうに思ふやうにもなつてゐた。

          ★

 それから三月ほど岡本は顔を見せなかつた。その三月のうちに、谷村は例の季節の病気をやつた。
 岡本の用件は突飛すぎるものだつた。
 岡本夫人は良家からとついだ人で、その持物に高価な品が多いことを素子なども知つてゐたが、岡本の放埒とそして零落の後は、別してそれを死守するやうな様子があつた。
 岡本はその品物からダイヤの指環や真珠の何とか七八点を持ちだして、これを大木といふ男に一万五千円で売つた。夫人はこれに気付いたが、売つたことを信用せず、新しい女にやつたと思ひこんでゐる。そして女のもとへ挨ぢこむ見幕であるが、あいにく今度の女といふのが人妻で、女の良人に知れただけでも単なる痴情でをさまらぬ意味があるのだと云ふのである。そこで品物を大木から買ひ戻して貰へまいかと云ふのだが、岡本には金がないので一時たてかへて欲しい、自分の有金はこれだけだからこれに不足の分をたして、と、懐から三千円を掴みだして、これを素子に差出した。
 話の桁が違ひすぎてゐた。谷村は親ゆづりの小金のおかげで勤めにもでず暮してゐたが、身体さへ人並なら働きにでゝ余分の金が欲しいと思ふほどであり、きりつめた趣味生活の入費を差引くと、余分の贅沢はできなかつた。谷村が人の頼みに応じ得る金額は微々たるもので、岡本がそれを知らない筈はなかつた。桁の違ひが突飛だから、拒絶の口実に苦しむ怖れもなく、谷村の気持には余裕があつた。岡本の話は正気だらうかと疑つた。
 万事につけて常とは違ふものがあつた。先づ第一に、岡本は素子に多く話しかけてゐるのである。素子を通して谷村に言ひかける素振ではなく、主として素子に懇願し、その衷情を愬《うった》へた。谷村にやりこめられたせゐばかりではないやうだつた。岡本の話の中に濁りがあつた。岡本の話も態度も何か秘密の作意の上に組立てられた一贋物のやうな感じがした。
 それにしても岡本が主として素子に話しかけてゐるといふのは谷村に皮肉な興を与へた。谷村は素子の言葉を忘れたことがなかつた。素子はなぜ蛙の代弁をしなければならなかつたか。そして、素子自身は蛙の突飛な哀願にどういふ態度を示すだらうかと谷村は興にかられた。
 素子は感情を殺してゐるから理の勝つた人に見えたが、事実はキメのこまかな感受性を持つてゐて、思ひやりと、広い心をもつてゐた。なるべく人を憎んだり侮つたりしないやうにと心懸ける人であつた。
 素子は岡本にたのまれて、岡本の女の面倒を見たことがあつた。その娘も岡本の弟子の一人で、岡本の子供を生み、家を追はれて、自殺をはかり、子供は
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