死んだが自分だけは助かつた。その後、素子が手もとへ引取つて自活の道を与へてやり、娘は美容術を習ひ、美容院の助手となつたが、自活できるやうになり素子の手もとを離れると、岡本とよりを戻した。
岡本には外にも多くの女があつた。その多くは弟子の娘達だつたが、慰藉料とか、子供の養育費とか、その支払ひに応じぬために暴力団に強迫されて、女への支払ひの外に余分の金をゆすられたこともあつた。
その娘は家を追はれて衣食に窮し自殺をはかつたが、岡本に金銭的な要求をしたことがなかつた。岡本はそこにつけこんだのであるが、つけこまれた女にも消極的にそれを欲した意味があると谷村は断じた。そのとき谷村はかう思つた。金銭は愛憎の境界線で、金銭を要求しないといふことは未練があるといふ意味だ、と。この谷村の考へに、素子は自分の意見を述べなかつた。素子は自分に親しい人をそこまで汚く考へるのが厭な様子に見受けられたが、又一面には、人間の心の奥をそこまで考へてみたことがなかつたやうにも見えたのである。
然し、谷村はそれに就てもかう考へた。素子が自分の意見を述べないのは、実は人間の心に就て、又愛憎の実相に就て、谷村以上にその実相の汚らしさを知つてをり、あまりの汚らしさに語り得ないのではないか、といふことだつた。一度男を知つた女は、再び男なしでは生きられない。たとへば、さういふ弱点に就て、素子は己れの肉体そのものが語る強烈な言葉を知つてゐる、その肉体の強烈な言葉は客間で語る言葉にはなり得ないのではないか、と疑つたのだ。
素子は社交婦人も嫌ひであつたし、慈善婦人も嫌ひであつたし、倹約夫人も嫌ひであつたし、インテリ婦人も嫌ひであつた。総じて女が嫌ひであり、世間的な交遊を好まなかつた。女の心は嫉妬深くて、親しい友に対するほど嫉妬し裏切るものだから、と素子は言つた。なるほど素子は寛大で、なるべく人を憎まぬやうに、悪い解釈をつゝしむやうにと心掛ける人であつた。心掛けはさうではあるが、その正体は? 谷村はそれに就て疑りだすと苦しくなる。素子はあらゆる女の中の女であり、その弱点の最大のものをわが肉体に意識してゐるのではないか、といふことだつた。
二人が結婚のとき、谷村は二十七で、素子は二十六であつたが、その結婚を躊躇した素子は、その唯一の理由として、二人の年齢が一つしか違はないから、と言つた。かやうに躊躇する素子は、谷村が素子を恋するよりも、決してより少く谷村を恋してはゐなかつた。技巧と解すべきか、真実の魂の声と解すべきか。或ひは又、女にとつては真実と技巧が不可分なものであるのか。その解きがたい謎に就て、谷村が直面した第一歩であつた。
二人の年齢が一つしか違はないから、といふ、それに補足して素子は言つた。女は早く老けるから。そしてあなたはいつか私に満足できなくなるでせう、と。けれども事実はあべこべであつた。そのときから十一年、谷村は三十八となり、素子は三十七になつた。素子はいくつも老けないやうに思はれた。素子には子供がなかつた。子供が欲しいと思はない? と素子が言つた。すると谷村は即坐に答へた。あゝ、欲しいさ。そのおかげで、君がお婆さんになるならね。
素子の皮膚はたるみを見せず、その光沢は失はれず、ねつちりと充実した肉感が冷めたくこもりすぎて感じられた。谷村はそれを意識するたびに、必ずわが身を対比する。痩せて、ひからびて、骨に皮をかぶせたやうな白々とした肉体を。その体内には、日毎の衰亡を感じることができるやうな悲しい心が棲んでゐた。
俺が死んだら、と谷村は考へる。素子は岡本のやうな好色無恥な老人の餌食にすらなるのではあるまいか、と。恋愛などいふ感情の景物は有つても無くても構はない。たゞ肉体の泥沼へはまりこんで行くだけではないのか。するとそのとき、素子のひろい心だのあたゝかい思ひやりなど、それは烏がさした孔雀の羽のやうにむしりとられて、烏だけが、肉体といふ烏だけが現れてくるのではないか。
俺は恋がしてみたい。肉体といふものを忘れて、たゞ魂だけの。そのくせ盲目的に没入できる激烈な恋がしてみたい。ならうことなら、その恋のために死にたい、と谷村は時に思つた。もうその恋も、肉体のない恋ながら体力的にできなくなつてしまひさうな哀れを覚えた。
そして谷村は、そんな時に、信子のことを考へた。
★
素子に話しかける岡本は、哀訴のたびに、媚びる卑しさを露骨にみせた。弟子に対する師の矜持《きょうじ》は多少の言葉に残つてゐたが、それはむしろ不自然で、岡本自身がそれに気付いてまごつくほどになつてゐた。年下の男が年上の女に媚びる態度であつた。
それを見てゐる谷村は、別の意味に気がついた。それは一人の魂が媚びてゐるのではなく、一つの男の肉体自体が媚びてゐる、といふことだ
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