村は素子にやりかへした。「あるとき神武天皇が野遊びにでると、七人の娘が通りかゝつたのさ。先登《せんとう》の一人がきはだつて美しいので、お供の大久米命に命じて今宵あひたいと伝へさせたのさ。すると娘が大久米命の顔を見つめて、アラ、大きな目の玉だこと、と言ふのさ。大久米命は目玉が大きかつたのだ。本当は胸がわく/\してゐるのだぜ。なぜなら、娘は神武天皇と一夜をあかして皇后になつたのだからね。そのくせ、ハイ、分りました、とか、えゝ待つてるわ、とか答へずに、大きい目玉ね、と叫ぶのさ。幸福な、そして思ひがけない、こんなきはどい瞬間でも、女の眼は人のアラを見逃してをらず、きまり悪さをまぎらすにも人のアラを楯にとつてゐるのだ。神武天皇の昔から、女の性根に変りはなく、横着で、残酷で、ふてぶてしくて、ずるいのさ。そのくせ自分では、弱さのせゐだと思つてゐる」
 谷村は女の意地の悪さに憎さと怖れを感じる性癖であつた。
 彼は生来病弱で、肋膜《ろくまく》、それから、カリエス、彼の青春は病気と親しむことだつた。病気の代りに素子と親しむやうになつても、病気が肉体の一部であるやうに、素子は肉体の一部にはならなかつた。
 素子は谷村といふ人間と、谷村とは別の病気といふ人間と、同時に、そして別々に、結婚してゐるのではないかと谷村を疑つた。
 一年に幾たびかある谷村の病気のときは、素子は数日の徹夜を厭はず看病に献身した。煙草をすはぬ素子であつたが、看病の深夜に限つて煙草をふかすことがあるのを、谷村はそれに気付いて、あはれに思つた。
「たばこ、おいしい?」
「えゝ」
「何を考へてゐるの?」
「考へることがないからなのよ」
 病む谷村は夜を怖れた。眠りは概ね中断されて、暗闇と孤独の中へよみがへる。悪熱のゑがく夜の幻想ほど絶望的なものはなかつた。夜明けの祈り、たゞその一つの希望のために、悶死をまぬかれてゐるやうだつた。
 その苦しみに、素子ほどいたはり深い親友はなかつた。枕頭に夜を明し、絶望の目ざめのたびに変らざる素子の姿を見出すことができ、話しかければ答へをきくことができた。素子は本を読んでをり、書きものをしたり、縫ひ物をしたり、又、あるときは煙草をくゆらしてゐた。薄よごれた眠り不足の素子の顔を胸に残して、谷村は感謝を忘れたことがない。
 然し、それのみが素子ではなかつた。
 夜の遊びに、素子は遊びに専念する無反省な娘のやうに、全身的で、没我的であつた。素子の貪慾をみたし得るものは谷村の「すべて」であつた。谷村の痩せた額に噴きあがる疲労の汗も、つきせぬ愛の泉のやうになつかしく、いたはり拭ふ素子であつた。
 谷村は人並の労働の五分の一にも堪へ得ないわが痩せた肉体に就て考へる。その肉体が一人の女の健康な愛慾をみたし得てゐることの不思議さに就て考へる。あはれとはこのやうなものであらうと谷村は思つた。たとへば、自ら徐々に燃えつゝある蝋燭はやがてその火の消ゆるとき自ら絶ゆるのであるが、谷村の生命の火も徐々に燃え、素子の貪りなつかしむ愛撫のうちに、やがて自ら絶ゆるときが訪れる。
 献身の素子と、貪婪《どんらん》な情慾の素子と、同じ素子であることが谷村の嘆きをかきたて、又、憎しみをかきたてた。情慾の果の衰へがやがて谷村の季節々々の病気につながることすらも無自覚な素子に見えた。献身は償ひであらうか。衰亡は死によつて終り、献身は涙によつて終るであらう。数日の、たゞ数日の、涙によつて。
 然し情慾の素子と献身の素子には、償ひと称するやうな二つをつなぐ論理の橋はないのだと谷村は思つた。素子は思慮深い人であるから、過淫が衰弱の因となり、献身がともかくそれを償ふことを意識しない筈はない。だが、意識とは何ほどの物であらうか。流れつゝある時間のうちに、そんなことを考へてみたこともあつたといふだけではないのか。
 素子の貪婪な情慾と、素子の献身と、その各々がつながりのない別の物だと谷村は思つた。素子の一つの肉体に別々の本能が棲み、別々のいのちが宿り、各々の思考と欲求を旺盛に盲目的に営んでゐるのであらう。素子の理智が二つの物に橋を渡すことがあつても、素子の真実の肉体が橋を渡つて二つをつなぐといふことはない。そして素子は自分の時間が異つたいのちによつて距てられてゐることに気付いたことはないのである。
 谷村は咒《のろ》ひつゝ素子の情慾に惹かれざるを得なかつた。憎みつつその魅力に惑ふわが身を悲しと思つた。谷村は自らすゝんで素子に挑み、身をすてゝ情慾に惑乱した。その谷村をいかばかり素子は愛したであらうか!
 遊びのはてに谷村のみが我にかへつた。その時ほど素子を咒ふこともなく、その時ほど情慾の卑しさを羞じ悲しむこともなかつた。素子は情慾の余燼《よじん》の恍惚たる疲労の中で恰も同時に炊事にたづさはるものゝやうな自
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