女体
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)先登《せんとう》
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)わく/\
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岡本は谷村夫妻の絵の先生であつた。元々素行のをさまらぬ人ではあつたが、年と共に放埒はつのる一方で、五十をすぎて狂態であつた。
谷村夫妻の結婚後、岡本は名声も衰へ生活的に谷村にたよることも多かつたので、金銭のこと、隠した女のこと、子供のこと、それまでは知らなかつたり、横から眺めてゐたにすぎないことを、内部に深く厭でも立入らねばならなかつた。
岡本は己れの生活苦が芸術自体の宿命であるやうに言つた。そして己れを蔑むことは芸術自体を蔑むことに外ならぬといふ態度言辞をほのめかした。けれども彼の人生の目的が官能の快楽だけで、遠く芸術を離れたことは否み得ないと思はれた。若い頃はともかく気骨も品位もあつたと谷村は思つた。今はたゞ金を借りだすための作意と狡るさ、芸術を看板にするだけ悪どさが身にしみた。
谷村は苦々しく思つてゐたが、その無心にはつとめて応じてやるやうに心掛け、小さな反感はつゝしむ方がよいと思つた。自分がこの年まで生きてきた小さな環境は、自分にとつてはかけがへのないものであるから、人の評価の規準と別に小さく穏やかにまもり通して行くことは自分の「分」といふものだと思つてゐた。その「分」を乗り越えて生きる道を探求するほど非凡でもなく、芯から情熱的でもない。そして小さな反感をとりのぞけば、岡本の狂態にも愛すべきものは多々あつた。
ところが、ある日のこと、虫のゐどころのせゐで、柄にもなく、岡本に面罵を加へてしまつた。面罵といふほどのことではないが、なるべく自分の胸にしまつて漏らさぬやうにと心掛けてゐたことをさらけだしてしまつたもので、つとめて身辺の平穏を愛す谷村には、自分ながら意外であつた。
彼は言つた。先生は理解せられざる天才をもつて自ら任じていらつしやる。ところが僕一存の感じで申すと、先生御自身そのお言葉を信じてをられるやうでもありませんね。知られざる天才は知られざる傑作を書く必要がありますが、先生は知られざる傑作を書く情熱や野心よりも、知られざる官能の満足が人生の目的のやうだ。先生は僕たちに対して御自分のデカダンスは芸術自体の欲求する宿命のやうに仰有る。さすれば僕たちが芸術への献金をはゞみ得ないと甘く見てゐられるやうです。ところが世間は存外甘くないやうです。なるほど世間は往々天才を見落しますが、それは天才の場合のことで、先生ぐらゐの中級、二流程度の才能に対して世間が誤算することもなく、かりに誤算し見落してもたかゞ二流のざらにある才能の一つにすぎないではありませんか。先生も以前は一かどの盛名を得て、つまり知られざる天才ではなく、才能の処を得てゐられたやうです。今日、なぜ名声が衰へ、世に忘れられたか。画境深遠となつて凡愚の出入を締出したせゐですか。ところが世間の凡俗どもは先生の画境の方が芸術から締出されたと評してゐます。僕も亦凡俗の一人ですからそれ以上には見てをりません。世間なみに先生はデカダンスによつて身を亡し芸術を亡したと解釈してをるのです。たゞ僕が世間といくらか違ふのは、古風な情誼をなつかしんでゐるだけのことです。
岡本はあさましいほど狼狽した。立直る虚勢の翳もなかつた。苦痛のために顔がゆがんだ。それを見る谷村は、根が善良な岡本を不当に苦しめてゐるやうな侘びしさにかられた。然し、ゆがめられた岡本の顔には、卑しさが全部であつた。
★
「先生をやりこめて愉しかつたでせう」
岡本の帰つたあとで、素子が言つた。谷村はこのやうな奥歯に物のはさまつた言ひ方に、肉体的な反感をもつ性癖だつた。人に与へる不快の効果を最大限に強めるための術策で、意地悪ると残酷以外の何物でもない。素子はそれを愛情の表現と不可分に使用した。それも亦、一種の肉体の声だつた。
「はつきり教へてちやうだい。もし先生が芸術家だつたら、先生の言ひなり放題にお金を貸してあげる?」
「僕のやり方が残酷だつたといふ意味かい。僕はもう僕自身に裁かれてゐるよ。そのうへ君が何をつけたすつもりだらう。然し、僕はやりこめはしなかつたのさ。たゞ、反抗したゞけのことさ」
「それでも、先生はやりこめられたでせう。先生のお顔、穴があいたといふ顔ね。人間の顔の穴は卑しいわ」
女は残酷なことを言ふものだと谷村は思つた。そのくせ、それを言ふことは彼女の主たる目的と何のかゝはるところもない。素子はたぶん谷村をやりこめようとしてゐるのである。その途中に寄り道をして、道のべの雑草をいはれなく抜きすてるやうに、岡本にたゞ残酷な一言を浴せかけてゐるのであつた。
「古事記にこんな話があるぜ」と谷
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