人は良家からとついだ人で、その持物に高価な品が多いことを素子なども知つてゐたが、岡本の放埒とそして零落の後は、別してそれを死守するやうな様子があつた。
岡本はその品物からダイヤの指環や真珠の何とか七八点を持ちだして、これを大木といふ男に一万五千円で売つた。夫人はこれに気付いたが、売つたことを信用せず、新しい女にやつたと思ひこんでゐる。そして女のもとへ挨ぢこむ見幕であるが、あいにく今度の女といふのが人妻で、女の良人に知れただけでも単なる痴情でをさまらぬ意味があるのだと云ふのである。そこで品物を大木から買ひ戻して貰へまいかと云ふのだが、岡本には金がないので一時たてかへて欲しい、自分の有金はこれだけだからこれに不足の分をたして、と、懐から三千円を掴みだして、これを素子に差出した。
話の桁が違ひすぎてゐた。谷村は親ゆづりの小金のおかげで勤めにもでず暮してゐたが、身体さへ人並なら働きにでゝ余分の金が欲しいと思ふほどであり、きりつめた趣味生活の入費を差引くと、余分の贅沢はできなかつた。谷村が人の頼みに応じ得る金額は微々たるもので、岡本がそれを知らない筈はなかつた。桁の違ひが突飛だから、拒絶の口実に苦しむ怖れもなく、谷村の気持には余裕があつた。岡本の話は正気だらうかと疑つた。
万事につけて常とは違ふものがあつた。先づ第一に、岡本は素子に多く話しかけてゐるのである。素子を通して谷村に言ひかける素振ではなく、主として素子に懇願し、その衷情を愬《うった》へた。谷村にやりこめられたせゐばかりではないやうだつた。岡本の話の中に濁りがあつた。岡本の話も態度も何か秘密の作意の上に組立てられた一贋物のやうな感じがした。
それにしても岡本が主として素子に話しかけてゐるといふのは谷村に皮肉な興を与へた。谷村は素子の言葉を忘れたことがなかつた。素子はなぜ蛙の代弁をしなければならなかつたか。そして、素子自身は蛙の突飛な哀願にどういふ態度を示すだらうかと谷村は興にかられた。
素子は感情を殺してゐるから理の勝つた人に見えたが、事実はキメのこまかな感受性を持つてゐて、思ひやりと、広い心をもつてゐた。なるべく人を憎んだり侮つたりしないやうにと心懸ける人であつた。
素子は岡本にたのまれて、岡本の女の面倒を見たことがあつた。その娘も岡本の弟子の一人で、岡本の子供を生み、家を追はれて、自殺をはかり、子供は
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