よ。芸術家然とをさまる時のあのチョビ髭はゾッとするほど厭なんです。けれども、それはそれですよ。それに向つて石を投げる必要は毛頭ないぢやありませんか」
素子は社交的な女ではなかつた。絵の勉強もしたが、作家特有の華美なるものへの志向も顕著ではない。どちらかと云へば地味な、孤独な性格で、谷村と二人だけで高原の森陰とか田園の沼のほとりで原始的な生活をして一生を終りたいと考へ耽るやうな人であつた。
この性癖は根強いものだと谷村は思つてゐた。病弱な谷村とすゝんで結婚したことも、その病弱が決定づけてゐる陰気な又隠者的な生活に堪へてゐるのも、素子の底にこの性癖があるからで、その自然さを見出し又信じ得ることは谷村の慰めであり、安堵であつた。ほかの男と生活をするよりも、自分とかうしてゐることがこの人の最も自然な状態なのだと信じ得るほど心強いことはない。谷村の現実を支へそして未来へ歩ませてゐる安定の主要なものが、もはやこんな小さな惨めなところにある、と谷村は信じ、そしてそれを悲しむよりも懐しむやうになつてゐた。
二人は稀に口論めくこともあつたが、一方が腹をたてると、一方が大人になつた。二人だけの現実をいたはることでは、素子は谷村に劣らなかつた。そして二人はどんなに腹の立つときでも決して本音を吐かなかつた。いたはりが二人を支へ、そしていたはられる自分を見出すといふことは不快をともなふものであるが、二人だけの場合に限つて、不快を感じることもなく、よし感じてもそれを別の方向へ向けたり流したりできるやうな融通がついてゐるのであつた。これでよいのだらうかと谷村は思ふ。これでよいのだらうと谷村は思ふ。これ以外には仕方がないと思ふ心があるからだつた。
「然し、なぜ君が蛙の代弁をしなければならないのだらう? 蛙自身が喋らないのに。そして、蛙は元々喋らないものだよ。蛙自身が喋りだすのは当事者の良心の中でだけさ」
素子はかすかに頷いた。分つてゐます、といふ意味であつた。よけいなことを仰有いますな、といふ意味だつた。
「あなたは先生の芸術家然とお金をせびるのが厭なのでせう。もともと、お金をせびられるのが厭なのです。お金を貸してあげることが厭なのです。あなたは私に比べればお金に吝嗇ではありません。ほかの方々に比べても、お金のことには淡白で、気の毒な方を助けてやりたい豊かな心もお持ちです。けれども、お金を
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