ばなりますまい。映画の中の無表情を見たときに、私自身の均合ひの悪さの不快を聯想して気分を悪くしたのです。
 京都では一足街へ踏みだしてどの方角へ足を向けても、やがて宏壮な伽藍につきあたらずにはゐられません。寺院建築は単調なほど均斉といふひとつの意志にすべての重心があつめられてゐるやうに思はれます。私の住む伏見深草から近いところに東福寺といふ禅寺があり、私の散歩の足は自然この寺へ向けられがちでありましたが、この寺は宋風とかいふ建築の様式ださうで、特にまた均斉を感じさせる伽藍であります。
 私はこれらの伽藍を見るにつけ、そこに営々たる努力をこめた均斉の意志を感じるたびに、いつとはなくひとりの狂人の意志を感じ、混乱を感じ、また危なさを感じる自分に気付くやうになつてゐました。これらの建築にこめられた異常なほど単一すぎる均斉の意志の裏には、この均斉を生みだすための凡そあらゆる不均斉がややともすれば矢庭《やにわ》に崩れて乱れだす危なさとなつて感じられます。そこまで明確に言ひすぎては、いけないのかも知れません。私自身の感じだけではもつと漠然とした気分だけのことであり、畢竟するにただ狂人の意志であり、
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