於てのみ自我を発見すべきもので、ドストエフスキーがさうであつたと言つてゐます。
私はかやうな言葉の中に、ジイドが自らの屍体へ向つて雄々しくも捧げた挽歌のひとつを読む思ひがしました。ジイドはドストエフスキーの芸に敗れたのです。なぜならジイドは天賦の芸人ではなかつたからです。そしてジイド自身こそ常に作品の前に自己を知る悲劇に悩み、かつまた己れの通路と限界によつて限定された己れの作品にややともすればくづれ易い自信を支へてゐたのです。
なるほどジイドは一応芸に類するものを全く別な才能からでつちあげることもできるやうな、普通人にはめつたにない聡明な智能を恵まれてゐます。そして彼は恰も作品の後に於て自己を発見するやうな真の小説の体裁だけはととのへた稀れな労作を創ることもできたのです。然しそれらが真物《ほんもの》でなく、所詮はまがひ物にすぎないことを、誰にも増して彼が知つてゐるでせう。
芸に於てドストエフスキーに敗れたやうに、ワイルドに対してはその芸人根性に敗れたとでも申しませうか。いくらか誤解されさうな言ひ方です。机に向つたのちの芸術家ではなく、文学以前の文学の世界で、生活者としての作家の世
前へ
次へ
全32ページ中28ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング