のを駆り立てて追ひつめられたものではなかつたやうです。もつと感性的なものであり、ひとつの気分としての失意であり敗北であり貧乏であり病気でありました。そして一九三六年三月二十四日午後五時のあの偶然がなかつたら、例へばあの日瀬戸一弥君が所用があつて他出してゐるやうな一事がなかつたら、あるひは今日もなほ健在であるかも知れませんし、それが不思議ではないのです。かりに健在であるとしても、恐らく一九三六年三月廿四日以前と殆んど生活態度にも変化はありますまいし、また芸術も多く変つてはゐないでせう。さういふ必至の厳しさで追ひつめられてゐた(むしろ追ひつめてゐたと言ふべきでせう)ものではなかつたのです。私はさう信じてゐます。いはば死ななくともよかつたのです。
私は時折葛巻義敏の病床を訪れたりしてゐるうちに、芥川龍之介に面識はなかつたものの、かなりに彼を肉体的に知るやうになつてゐました。又アルバムの類ひなぞを見たせいか、彼の数種の表情も知り、結局彼がわが国の文人中では、江戸の戯作者を除いたなら、もつとも豊かな動きをもつた表情の所有者ではあるまいかと思つたのです。明治以降のわが文壇では、面のやうに動きのな
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