まつたひとつの脳味噌を想像します。次にこれらの材木の組合せによつて生まれるところのありとあらゆる形々々のやや無限を思はせるところの明滅によつて脹《ふ》くれ歪み合し崩れ混乱する様を想像します。この脳味噌の内部に於ては古典的とでも言ふ以外に仕方のないほど単調なかつまたまともな均斉のみは許るされますが、破調の均斉は許るされてゐません。そして単調にまで高められた均斉の微細な一角が崩れても、この脳味噌は再び矢庭に形々々のめあてない混乱に落込みます。
かうして私はいつからといふことなく又必ずしも右記のやうな論理を辿つてのことではなく、ある曖昧な気分のみの過程の後に、隠元といへばひとり痩せ衰へ目のみ鋭く輝き老えさらぼうた狂気の坊主を思ふことがこれも亦自然のやうになつてゐました。たとへば再び私達の眼前の幕にこの坊主の脳味噌をすえつけませう。いま脳味噌の内部ではどうやら鼓楼の全形が単調な均斉にまで高められたところであります。ところで鼓楼の階段が今脳味噌の内部に於て建物の右にあるか左にあるか中央にあるか知りませんが、かりに中央にあるものならこれを我々の独断でちよつと右へ移してみませう。単調にまで高められた均斉は一朝にして無残に崩れ恰も芋を洗ふやうな形々々の混乱が突然脳味噌の全面積に場所を占めて足掻いてゐます。そして脳味噌の所有者は恰も直接私達の苦痛から発したやうな血涙をこめた悲鳴をあげて七転八倒するでせう。然しながらこのやうに明瞭な画面を描いて私の漠然とした感じの世界に論理を与へ、かつ限定を与へることはいけないのです。これはひとつの方便であります。
私は別に黄檗山万福寺を訪ふたびにその材木や甃《いしだたみ》や壁に隠元の血の香をかいでゐるわけではありません。むしろ直接の現実としては殆んどまつたくそのやうなことがないと言はねばならないのです。ここの食堂《じきどう》はこの寺の大部の伽藍と同様に国宝ですが、恐らく曾《かつ》てはこの場所で隠元豆を食べたであらう彼などを甚だ想像しやすいのは、私自身が例外なしにその目的によつてのみしかこの寺を訪れることがないせゐでせうか。
理知人は却々《なかなか》に狂者たりえぬものであります。恐らく彼等は元来がすでに性格の一部に於て天賦の狂者でもあるからでせう。生来狂者と常人を二つながら具へてゐると申しませうか。今更発狂もしにくいやうです。
私は理知人のもつ静かさの中にむしろ彼等の狂者の部分を感じ易い癖があります。いはば静かさの内蔵する均斉の意志の重さを苦痛に感じ、その裏にある不均斉の危なさにいくらか冷や冷やするのです。その当然の逆として、もともと不均斉を露出した人々には危なさの感じがありません。
私は生前の芥川龍之介に面識はなかつたのですが、その甥の葛巻義敏と学友で、「言葉」それから「青い馬」の二つの同人雑誌をだした時は芥川龍之介の書斎が私達の編輯の徹夜のための書斎でした。
私は芥川の芸術を殆んど愛してゐませんでした。今日とて彼の残した大部分の作品に概ね愛着を持ち得ないのは同じですが、あのころのことを思ふと然し余程意味は違つてゐるのです。そのことにはふれますまい。とにかく彼の芸術に微塵も愛情をもち得なかつた私は血気と、野望に富んだ多感な文学青年であつたにも拘らず、当時なほ自殺の記憶の生々しかつたこの高名な小説家の書斎に坐して、殆んど感慨がなかつたばかりか、むしろ敵意を感じる程度のものでした。彼の死体があつた場所で葛巻が当時のことを語るのも感興なしに聞き過してゐたやうですし、そのころぽつぽつ発見された遺稿の類を示されても終りまで読まうとせずに読んだふりをしてゐたやうな冷淡きはまる態度であつた記憶があります。
芥川龍之介の芸術についていくらか違つた考をもちだしたのは漸く三年このかたでせうか。すでに私が変つてゐました。ある日葛巻の病床を見舞ふと、彼は芥川全集普及版の第九巻を持ちだしてきて、ただ断片とある二三頁の文章を示し、読んでみないかとすすめたのです。その文章を読んで以来、芥川に対する私の認識は歴然と変つたやうです。この断片もさうですが、だいたいが普及版の第九巻には主として死後に発見された断片の類が集められてゐて、彼の小説の大部分には依然愛情のもてない私も、この一巻に収められたいくつかの文章のみは凡らく地上の文章の最も高度のいくつかであらうと信じてゐます。この年の一月終りのことですが、一物もたづさへずに東京をでて、京都嵐山の隠岐《おき》和一の別宅にまづ落付いて以来、一切の読書に感興を失つた私が然し葛巻に乞ふてこの一巻のみ送りとどけてもらひました。その後宇野浩二氏から牧野信一全集をいただいたのが、下洛このかた約一年のうち私のふれた他人の文学のすべてであります。
この断片の内容をかいつまんで申しますと(然しこの断片の
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