つて私が屡々《しばしば》表明し得た最大の抗弁と批難は、それは月並だよといふ言葉でした。そこには私の堪へきれぬ最大の意味が含まれてゐたのでしたが、それを激して語る術もなかつたので、女は恐らく最も屡々聞きなれた言葉の真意を聞き逃してしまつたらうと思はれます。
私は色魔ですと臆面もなく言ひきることの厭味や卑屈さに堪へきれぬ私は、結局それにこだはることも多いわけで、彼女等にそれを言はれた瞬間の苦痛や怒りが、想像の中に於てもやや生々しい現実味を覚えさせられるほどであります。映画の中の主人公は占師の敵意の視線を浴びたときに毛筋ほどその表情を動かすこともなかつたのですが、そのことがこの印象を一層濁つた重苦しいものにするのでした。
同じ場合を私自身に当てはめて想像して、私はこのやうに無表情でありうるでせうか。ありうるかも知れません。恐らくむしろありうることが一層確かな予想だらうと思はれます。
然しながら無表情であり得た場合を想像しても、軽微な犯跡を隠し得たときのわづかな快味すら感じ得ぬばかりか、恐らく内心の動揺と顔面の不動との均合ひの悪さのために、無表情の裏面に於て私は更に加重された苦痛をなめねばなりますまい。映画の中の無表情を見たときに、私自身の均合ひの悪さの不快を聯想して気分を悪くしたのです。
京都では一足街へ踏みだしてどの方角へ足を向けても、やがて宏壮な伽藍につきあたらずにはゐられません。寺院建築は単調なほど均斉といふひとつの意志にすべての重心があつめられてゐるやうに思はれます。私の住む伏見深草から近いところに東福寺といふ禅寺があり、私の散歩の足は自然この寺へ向けられがちでありましたが、この寺は宋風とかいふ建築の様式ださうで、特にまた均斉を感じさせる伽藍であります。
私はこれらの伽藍を見るにつけ、そこに営々たる努力をこめた均斉の意志を感じるたびに、いつとはなくひとりの狂人の意志を感じ、混乱を感じ、また危なさを感じる自分に気付くやうになつてゐました。これらの建築にこめられた異常なほど単一すぎる均斉の意志の裏には、この均斉を生みだすための凡そあらゆる不均斉がややともすれば矢庭《やにわ》に崩れて乱れだす危なさとなつて感じられます。そこまで明確に言ひすぎては、いけないのかも知れません。私自身の感じだけではもつと漠然とした気分だけのことであり、畢竟するにただ狂人の意志であり、
前へ
次へ
全16ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング