混乱であり、また危なさにすぎないのです。均斉の極めて小さな一角が崩れても忽ち血潮と共に喉から溢れて迸るやうな悲鳴が思はれぬこともないのですが、然しそこまで明瞭に言ひきることも、言ひ過ぎといへばまた言ひ過ぎにほかなりません。
宇治の黄檗山《おうばくさん》万福寺は純支那風な伽藍ですが、京阪電車を利用すれば、私の住居から遠い距離ではありません。特殊な関心がありうる筈もないのですが、一度偶然あの寺を訪れ、門前の白雲庵といふところで精進料理を食べてから、京都の事情に暗い私は下洛の友達があるたびに主としてここで飲食にふけることが習ひのやうになつたのです。
黄檗山万福寺は隠元の指揮によつて建築された伽藍であります。私は隠元が元来支那の人であるのを知らずにゐて、この寺の宝物を見るに及び、彼が異邦の人であるのを知ると同時に、彼が支那から帯同した椅子や洗面器の類ひを見て、彼に対する親しさを肉体的なものにまで深めるやうな稀れな感傷のひとときを持つたりしました。私は隠元の思想に就いては知りません。わづかに白雲庵発行の精進料理のパンフレットによつて彼の思想の一端にふれただけにすぎませんから、いはば仁丹の広告を読んで医学一般を論じるやうな話ですが、私は隠元が好きなのです。精進料理のパンフレットからとりあげて二つの理由を挙げますなら、人の交りは飲食によつて深められるといふ見解から日日の行事のうちで特に食事に重きを置いたといふ彼にも好意がもてますし、日本渡来の事業として布教よりも第一に万福寺の建築に心血をそそいだといふ彼も好きです。最高の内容主義はやがて最高の形式主義に至らざるを得ないからです。
私の知る限りでは京都府内に於て黄檗山万福寺ほど均斉の意志を感じさせる伽藍はありません。渋味のうちに籠められた甚だ清潔にして華麗な思想や、色彩の趣味や、部分的には鐘楼と鼓楼の睨み合つた落付など、均斉の意志といふことは別として一面人に泌みるところの現実の安定感を思ふだけでも、恐らく隠元その人は遠く狂者と離れた人で、隠元豆の円味すら帯びた人格であつたかも知れません。私自身の思ひとしてもその想像が自然です。
然しまた次に述べる想像も自然であります。この伽藍は熱帯のなんとかいふ特殊な材木を用ひてゐるさうですが、まづ用材にからまることは度外視して、ここに仮りに根太《ねだ》や垂木《たるき》や棟によつてぎつしりつ
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