まつたひとつの脳味噌を想像します。次にこれらの材木の組合せによつて生まれるところのありとあらゆる形々々のやや無限を思はせるところの明滅によつて脹《ふ》くれ歪み合し崩れ混乱する様を想像します。この脳味噌の内部に於ては古典的とでも言ふ以外に仕方のないほど単調なかつまたまともな均斉のみは許るされますが、破調の均斉は許るされてゐません。そして単調にまで高められた均斉の微細な一角が崩れても、この脳味噌は再び矢庭に形々々のめあてない混乱に落込みます。
 かうして私はいつからといふことなく又必ずしも右記のやうな論理を辿つてのことではなく、ある曖昧な気分のみの過程の後に、隠元といへばひとり痩せ衰へ目のみ鋭く輝き老えさらぼうた狂気の坊主を思ふことがこれも亦自然のやうになつてゐました。たとへば再び私達の眼前の幕にこの坊主の脳味噌をすえつけませう。いま脳味噌の内部ではどうやら鼓楼の全形が単調な均斉にまで高められたところであります。ところで鼓楼の階段が今脳味噌の内部に於て建物の右にあるか左にあるか中央にあるか知りませんが、かりに中央にあるものならこれを我々の独断でちよつと右へ移してみませう。単調にまで高められた均斉は一朝にして無残に崩れ恰も芋を洗ふやうな形々々の混乱が突然脳味噌の全面積に場所を占めて足掻いてゐます。そして脳味噌の所有者は恰も直接私達の苦痛から発したやうな血涙をこめた悲鳴をあげて七転八倒するでせう。然しながらこのやうに明瞭な画面を描いて私の漠然とした感じの世界に論理を与へ、かつ限定を与へることはいけないのです。これはひとつの方便であります。
 私は別に黄檗山万福寺を訪ふたびにその材木や甃《いしだたみ》や壁に隠元の血の香をかいでゐるわけではありません。むしろ直接の現実としては殆んどまつたくそのやうなことがないと言はねばならないのです。ここの食堂《じきどう》はこの寺の大部の伽藍と同様に国宝ですが、恐らく曾《かつ》てはこの場所で隠元豆を食べたであらう彼などを甚だ想像しやすいのは、私自身が例外なしにその目的によつてのみしかこの寺を訪れることがないせゐでせうか。
 理知人は却々《なかなか》に狂者たりえぬものであります。恐らく彼等は元来がすでに性格の一部に於て天賦の狂者でもあるからでせう。生来狂者と常人を二つながら具へてゐると申しませうか。今更発狂もしにくいやうです。
 私は理知人のもつ
前へ 次へ
全16ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング