潔な師匠でもあつたのである。
 私はこの部屋でいくつかの飜訳をした。明日までに、やつて頂だいよ、雑誌ができないもの、と葛巻にせがまれて、大概一夜づゝで訳したものだが、シェイケビッチ夫人のプルウストに就てのクロッキといふ本も一夜で訳したし(本といつても有閑マダムの豪華本だから全訳して三十枚ぐらゐしかない)ヴァレリイのヴァリエテやジッドのオスカアワイルドの思ひ出、コクトオの音楽論だの誰だかのモンターヂュ論だの、ずいぶん訳した。一夜の仕事で分らないところは抜かして辞書などひかずにやるのだから、出来上りは明快流麗、あの難渋のヴァレリイやコクトオが明快手軽に訳されてしまふのだつた。知らない人々は感心して小林秀雄までヴァリエテの訳をほめたけれども、分らぬところはみんな抜かして訳すのだから明快流麗は当然で、ほめられると大変苦しく困るのであつた。葛巻はそんなことゝは知らなかつた。
 私は芥川の書斎でいつも芥川に敵意をいだいてゐた。彼の華やかだつた盛名に反感をいだいてゐたのであつた。私は今日芥川の小さな遺稿のいくつかに変らざる敬意を払つてゐるのであるが、当時彼の書斎でそれらを原稿のまゝ読んだときには、くだらないものだと思つてゐた。理解する目も育つてゐなかつたのだが、又、旺盛な敵意があつて、碌々目も通さず葛巻に突き返してゐたのだ。死の家の暗さだの跫音のない婆さんが歩いてゐたなどゝいふのも彼の自殺に対する反感がさせた仕業の一つであるかも知れなかつた。けれども青い絨氈だけは、私は今でも、その暗さには苦しさだけしか思ひださない。葛巻の結婚記念に、あの絨氈燃してはどう? 手紙にさう書いたが、この手紙はだしそこなつてしまつた。だが多分、今度の戦火ですべてが燃えてしまつたと思ふ。
 私が二つ目の小説「風博士」を書いたときに牧野信一が文藝春秋で激賞してくれた。三ツ目の「黒谷村」、を書いたとき、文藝春秋の新人号へ書かされることになり、〆切の期日までに五日しかなかつたが、之は多分急に話がきまつたのであらう。そのとき牧野信一から会ひたいといふ手紙が来て、大森の山王にあつた彼の家へ訪ねて行つたが、そのとき彼が君に会つてみて安心した、玄関を上つてくるといきなりポカリと俺をなぐるやうな奴が来るんぢやないかと女房と話をして脅えてゐたのだ、と言つた。
 人々はそのころの僕の作品を牧野信一に似てゐると言ふけれども、之は偶然で、私はそのときまで牧野信一の小説を全然読んでゐなかつた。彼と私の愛読するものがそのころ全く同じであつたから、例へばポオ、ドン・キホーテ、ボルテール、等々、自然似た作風になつたのであらう。然し、その後、牧野信一の小説を読んで感心したが、彼の後年の作品は好きになれず、彼の中年の作が好きで、そのためによく喧嘩をした。彼に就ては、いつか小説に書いてみたいと思つてゐるから、今は多く語らない。
 私は短篇小説をたつた三つ書いたゞけで一人前の文士になつてしまつたけれども、私の文学的教養は甚しく低いもので、何よりもいけないことは、文学によつて是が非でも表現しなければならないやうな問題もなく、自分自身すらもなかつた。一つの漠然たる哀愁と、功名慾があつたばかりのやうである。葛巻などは二十前後でハッキリ自分を見つめ、コクトオとラディゲの中に自分を見つめて、全身で狙ひをつけて読書してゐた。貧弱なフランス語の知識しかないくせに、あの難解なコクトオを全然誤訳なく読破してゐるので驚いたが、それらの本は手垢にまみれ綴《とじ》が切れてバラ/\になつてゐるのであつた。私は不幸にして今に至るも尚そのやうな劇しい読書はしたことがない。
 私はその後、メリメとスタンダールをいくらか熱心に読んだが、その情熱も知れたものであり、ドストイヱフスキーなどもかなり熟読したけれども、之又タカの知れた読み方であつた。私は多分真実没頭することのできない性分で、先輩に師事したり、先人の作に没入して啓発を受けるといふやうな謙虚な道がとざされてゐるのだと思つてゐる。持つて生れた性分だけの道を歩くことしか出来ないのだと近頃では思つてゐるが、ひところは葛巻のひたむきな読書のことなど考へると、私だけ真実といふものからノケ者にされてゐるやうな当てどのない苦しさを感じたものであつた。
 だから私の一生は誰から影響を受けたといふやうな素性の正しいものはなく、そのくせ軽率な模倣癖は驚くほど旺盛であるから、その程度の影響は雑多無数でキリがない。私の模倣癖の甚しさに就て一例をあげれば、私はたとへば山路愛山の徳川家康に感心したが、愛山とか徳富蘇峰とか、かういふ独創的な歴史家の歴史を読むと、私はそれに限定され、それ以上にハミ出すことができなくなつて、歴史小説が書けなくなつてしまふのだつた。だから私は歴史小説を書くために調べ物をするときは、二流
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