た筈だ。なぜなら、坊主の勉強から脱け切つてゐたわけではない私にとつて孤独といふことは尚主要な生活態度であり、私はあまり広い交游を好んでゐなかつた。私はもう当時の事情をみんな忘れてしまつたけれども、雑誌がはじまるまで私の友達といへば長島|萃《あつむ》がたつた一人であつた筈で、私自身が雑誌を発案する筈はない。私は同人雑誌といふ存在すら実際知らなかつたのである。
「言葉」は二号でただけで「青い馬」と改題し、岩波書店から発売することになつた。之は同人の葛巻義敏が芥川龍之介の甥で、芥川の死後は芥川家を代表して彼が専ら遺稿の出版に当つてをり、そのころは二十を一つか二つ過ぎたばかりの(或ひは二十の)若さであつたが、全責任を負ふて岩波の全集出版に当つてゐた。それで岩波も葛巻の申出を拒絶することができなかつたのであるが、この良心的な然し尊大な出版屋を屈服させた葛巻の我儘は私を驚愕せしめたものである。葛巻は私を誘ひ(二人が編輯に当つてゐたから)岩波書店の出版部長をよびだし、神田一円の表通り裏通りを当もなくグル/\と歩き廻りながら、岩波が言を左右にして申出をはぐらかす曖昧な態度を難詰し、芥川全集の出版は中止にします、と叫んだが、彼の全身は怒りのためにふるへてゐた。葛巻は良家の躾よく育てられた礼儀正しい少年で、自分の意志を率直な言葉で表現することのできない弱気な貴公子といふ風で、私は彼の怒つたのを見たことすらこのとき一度あるのみ、ふだんはウンザリするほど煮えきらない人だ。それがある種の立場に立つと、先方の事情などは全然思ひやらず、これほど大胆向ふ見ずに自分の利益を主張できるものかと思ひ知つて、呆れもしたが感動もした。私などにはない坊ちやんの純潔さを見たのである。彼は恋をしてゐたのだ。自分の意志すら表現できない坊ちやんらしい片思ひで、彼にとつてはその恋が彼の生活の全部であつた。恋のための身だしなみに彼には立派な雑誌が必要であつたので、だから彼は必死に怒つたのであつた。私がこのことに気づいたのは後日の話である。
 彼は然し令嬢に向つて打開けることはできなかつたが、私たちには打開けすぎるぐらゐ打開けてゐた。雑誌の編輯は芥川家の二階の寝室で、この寝室では芥川龍之介がガス管をくはへて死に損つたことがあるさうだが、そのガス管は床の間の下にまだ有つたし、部屋いつぱい青い絨氈《じゆうたん》をしきつめて、日当りは良かつたが陰鬱な部屋だつた。それは絨氈の色のせゐだ。この絨氈は芥川全集の表紙に貼つた青い布の余りを用ひたもので(僕の記憶がまちがつてゐなければ)だから死んだ芥川には直接関係のない絨氈だつた。私はこの陰鬱な色を嫌つて、君、この絨氈を棄てちやつたらどう? 僕は絨氈の色を考へると、この部屋へ通ふ足がにぶつてしまふのだ、と腹を立てゝいきまくのだが、だつて、君つたら、どうしてこの絨氈をいやがるんだらうね、と彼はクスリと大人のやうに笑ふのだつた。この寝室には大きな寝台があつて、恋のために眠れない葛巻は致死量に近いカルモチンを飲んで寝台から落ちて知らずに眠つてをり、未亡人も女中達もみんな跫音《あしおと》といふものを失つてひそ/\と部屋々々を歩く感じであつた。死の家といふんだらうね、日当りが良いくせに、いつだつて日蔭のやうな家ぢやないか、私はプン/\怒りながら長島萃に言ふのであつた。夜中に便所へ降りたんだ、そしたらね、下の座敷の鴨居の下をお婆さんが歩いてゐるんだ。大きな肩のガッシリした角力《すもう》のやうなお婆さんで、そのくせ跫音がないんだぜ、おまけに一人かと思つたら、二人ゐるんだ。長島萃は腹をかかへて笑ひだす。もとより彼は死の家だの跫音のないお婆さんだのといふことが私の口実にすぎないことを見抜いてゐたに相違ない。長島萃はまもなく自殺して死んだ。
 葛巻と私はこの部屋で幾度徹夜したか分らない。こんな下らない原稿ばかりで雑誌をだすのは厭だと言ひはるのは葛巻であつた。だつて同人雑誌といふものはさういふ性質のもので、ほかの原稿は下らなくとも自分だけ立派な仕事をすれば良いぢやないかと主張するのは私であつたが、一見優柔不断な葛巻は、然し、最大の執拗さを以て、あれこれと廻りくどい表現で自説を固執してやまない。私はどうしても負けてしまふ。
 私が負けるのは他に当然な理由があつて、葛巻は恋の外には何事も考へてをらず、その身だしなみのために立派な雑誌(内容も)をだしたいと純一に思ひ決してゐるだけで、その追求は純粋きはまるものであつた。然るに我々の立場はといへば、怪我の功名でも良いし、落首を拾つてゞも天下に名を成したいといふ野武士のやうな魂胆で、少しぐらゐ不純だつて世間に受ければ良いぢやないか、といふサモしい量見をかくしてゐる。之ではとても葛巻の追求に勝てないのは当然で、私にとつて葛巻は非常に純
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