距りにも拘らず、最も近代を思はせるものは、それが思想によつて書かれずに、眼によつて、鬼の眼によつて、不動の眼によつて書かれてゐるからだと私は思ふ。伊勢物語や西鶴の作品に近代の感覚が漂ふのは、その思想によつてでなく、ラクロに近似したその眼によつてのことである。
近くはレエモン・ラディゲがさうであり、人は彼が時間的に近代の人であるため、彼に時間的な近代を認めがちだが、単に昔ながらの文学の宿命的な近代、つまり人間を眼によつて描いてゐるにすぎないのである。
そしてラディゲが、同じ一つの眼によるに拘らず、少年の作品であるとすれば、ラクロはより成熟した作品で、その意味に於ては、「ドルジェル伯の舞踏会」を昔に、「危険な関係」をより近代の作品に見たてても差支へがない程である。
つまりラディゲの窓からは、まだ肉体の人間関係が閉ざされてをり、彼のエスプリ、彼の眼は、ただ思慕や姦淫の念とその裏側のカラクリをめぐる人間戯楽の図絵を突きとめ得たにすぎない。ラディゲにも Diable au corps といふ十何歳かの作品があるけれども、その魔の宿る肉体は幻想的な自涜的肉体であるにすぎず、肉体によつて始まる
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