の姿態がぐらりとゆれて右に傾いた。骨のない軟骨だけのからだのやうにグニャ/\とゆれて、
「それまで」
グニャ/\のまゝ、コマをつかんでパラリと落した。一秒の沈黙も苦痛の如くに、すぐ語をつけたして、
「五四歩がいけない。こゝへ金を打つんだつた」
「どこ?」
「こゝ。六四」
それまで、と駒を投じた名人の声は、少し遠く坐を占めた人にはきこえなかつたのぢやなからうか。グニャ/\くづれる肉体のキシム音、かすかな、それ自体グニャ/\したやうな音だつた。その時、二時二十四分。
こゝをかう指すべきであつた、こゝがいけない、かう指して、かうきたら、かう、名人、喋りまくる。どこから出てくる声だらう。日本紙をハリつけたやうな声だ。かすれて、ひきつり、ひからび、ザラザラし、喉よりも奥から出てくる音ぢやない。すぐ喉のあたりで間に合せに製造してゐる声で、喋りまくらなければいけないのだらう。声がとぎれなくとも、時々フッと、諦めきれない泣き顔になる。どうしていゝのか、自然にからだが、グニャ/\くづれて、へこみ崩れしぼむのを、ともかく、押へてゐる様子であつた。
指した手のおさらひだから、塚田八段、このお喋りにともかく一々相手にならなければならない。時々目がピカリと光つて名人を見つめ、ぢやア、かう、その時はかう、ヂッと見つめる、然し、勝つたといふ喜びの心の翳が、ほのかにすら、浮かばない。
あとでみんなで酒を飲んだとき、この試合、見てゐて切なかつた、と私が云つたら、塚田新名人グイと首をもたげて、いえ、名人戦のうち、今日ほどエキサイトしない勝負はなかつたんです、と言つた。
将棋としては、その通りなのだらう。つまり半ばすぎる頃から勝負の数ハッキリして、逆転の余地がなかつた。夜の零時といふ頃には、恐らく運命のサイコロすでに定まり、人力による転換の余地もなかつたから、エキサイトせず、木村名人がコマを投じた時、その時に至つてこと新しく勝利を自覚するに及ばなかつたのだらう。
然し、私にとつては将棋そのもののコマの動きが問題ではなかつた。それは見てゐて、元々私に分りやしない。十年不敗、なかば絶対と云はれた王者が、王者の地位から転落した。そのサイコロが対局のなかばすぎからほゞ動かしがたくなり、悪魔に襟首をつかまれながら、名人、必死に居直つてゐた、それはもう、塚田八段との争ひではなく、転落の王者が、運命の悪
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