シヤウガナイナ、それだけ、きこえる。
 塚田八段、五二歩ナリ(一分)
 名人腕を組み、サウカと呟いて、そのまゝ口をあけてゐる。塚田八段、タオルをとつて鼻の下をゴシゴシこすり、私をチラと見て、便所へ立つた。すると名人、盤にかゞみこんで、
「どうもいけねえこと(ショウブ)した」
 と呟いたが、コト、ショウブ、よくきゝとれない。眼鏡を外して、タオルを顔に当て、目のところを抑へてゐる。頸をふく。
 塚田八段、便所から戻り、この時分から、決然たる色がハッキリ顔にきざまれたのである。そして、どうにでもしてくれといふやうに、腕を組み、からだをよぢらせてゐる。
 木村名人アクビ。又タオルをとり、顔をふき手をふき、アーと言ひ、つゞいて何かつぶやく。ボーイがあついコーヒーを運んできたが、冷えきつたお茶の方をとりあげて飲み、ウウーンと唸り、タバコの箱をとりあげたがカラだから、
「タバコはないか」
 倉島君がタバコを渡す。
「名人あと三十分です」
 かすかに、うなづく。
 ドウモ……何かつぶやく、きゝとれぬ。坐り直す。又、呟く。
「名人、あと二十分です」かすかに、ウン。
 何か、つぶやく。きゝとれぬ。又、何かつぶやく。きゝとれない。
「カチガネエカ」と言つたやうだ。
 塚田八段、ウウ、ウウ、頻りにうなる。ン、ウン、といふセキバラヒのやうな唸り方もする。姿勢はキチンとしてゐる。
 木村名人、二十八分、六三金、これも負けずに、ウ、ウウ、ウウ、せきばらひする。
 六一と。
「……ガアスコニ……ネエカ」
 名人かゞみこんで考へながら呟く。又、何か、一言。又、何か。腕組みながら。
 三五角。二度コマをたゝく。すると、すぐ、四六歩、これも二度たゝく。
「名人あと十分です」
「ウン」
 それから、
「何分でもいゝ」
 たぶん、さう呟いたのだらう。名人に最も近く坐を占めてゐるのが私なのだが、その私に、すべて、きゝとれない呟きなのである。顔に右手を当ててゐる。額に当てて、さすつてゐる。たぶん名人すでに顛倒、為しつつあることが、呟きつゝあることが、すべて自ら無自覚ではないかと思はれる様子である。
「マア、かうやつとかうか」
 と、七九馬。そしてアゴを押へる。
 塚田八段、セキバラヒ、かゞみこみ、自陣を見てゐたが、次に敵陣を見て、それからバタバタ一瀉千里。
 三二龍、同銀、八三桂成、同王、八四銀。
 同時に名人
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