からひきつゞいて考へてゐた塚田八段、五三歩(六十八分)
名人チラと見ただけ、メタボリンをのんで便所へ立つたが、廊下でふりむき戻つて火鉢の火からタバコをつけて、立ち去る。塚田八段も立ち上つて去る。名人戻つてきて、一分間ぐらゐ盤を睨んで、
七二王。人差指一本で王を押へてスーと横にずらす。そして両手を火鉢にかざしたが、顔をねぢむけて、盤を見つめる。塚田八段が考へはじめた。
「オーセツマへ知ちせて下さいネ」
と記録係に言つて、木村名人立つ。
私が応接間をのぞいてみると、奥の肱掛《ひじかけ》椅子に腰を下して、タバコを右手に持ちあげて、例のマネキ猫の恰好で目をとぢて考へてゐる。
五分後に又のぞいてみると、もうタバコを持つてゐない。両手をだらりと垂れて、ぐつたり目をとぢて、のびてゐる。全然考へつゝある顔ではない。大きな疲れ。大きな苦悩そのものに見える。
十分後、又のぞいてみる。全然同じ姿、たゞ、口がだらしなく開いてゐる。
食堂で加藤八段の解説をきいてゐると、倉島君がはいつてきて私の肩をたゝいて、
「おい、ひどいぜ。名人が応接間にのびてゐるぜ」
「あゝ、知つてる」
「見ちや、ゐられないな」
塚田八段九十六分考へて、五五馬、これが新手であつたさうだ。
今度は名人が考へこんで十分ほど後、
「名人、あと二時間五〇分です」
名人かすかに、ウン、と云ふ。その時、九時四十分であつた。
両棋士、酒に酔つ払つてゐるやうに見える。顔が薄く赤らんで、目がトロンとして、額にシワ、眉根をよせ、脂が浮いてゐるやうだ。
塚田八段、腹痛のやうに左手で腹をおさへ、やゝうつむいて、眉をよせ、目をとぢてゐる。雨だれの音が一つ、ひどくキワ立ちはじめた。外は霧雨なのである。
塚田八段が立ち上つた。足がしびれてゐるらしい。立ち上つて、ふらふら、ふみしめて、ひきずりながら、モーローと立ち去る。そのとき、
「名人、二時間半です」
名人全然返事なし。口をあけてゐる。タバコの右手をかざしてゐる。その手と、あいた口が、かすかに、ふるへてゐる。
塚田八段が戻らない。新手の五五馬に名人の長考が分りきつてゐるのだらう。名人例の持ち時間いつぱい使ひきつて考へこむんぢやないかと私も素人考へに思つた。塚田八段が何をしてゐるのだか様子を見ようと思つて、私も便所へ立つたが、便所にゐない。応接間にも、食堂にもゐない。ソフ
前へ
次へ
全20ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング