ァーに袴がぬいである。私が廊下に立つてゐると、コック場の方から帯をしめながら現れてきた。
そこへ二階から倉島君が降りてきて、村松さんが待つてる、一戦やらう、と言ふ。名人大長考と思つたから、よろしい、二階へのぼる。握つて私が黒。観戦、倉島君、土居八段。村松さんは文壇随一、名題の長考。ふだんでもこの長考には悩まされぬ者なしといふ音にきこえた大陸的な三昧境で、階下に心の残る私の焦躁、すると又運わるく劫争《こうあらそい》ばかり、私は悪手の連発で、形勢大不利、えゝ面倒アッサリ負けようと考へもせずポイポイ置くうちに、村松さん沈思長考、私以上の悪手を打つて勝手に負けてしまつた。私が五目勝つてしまつた。もう一局といふのを辞退に及んで階下へ駈け下りる。
名人の応手が五四歩(八十九分)同馬(三十七分)六四金、三六馬(十二分)五七歩(二十四分)同王(二十一分)
これだけ進行してゐた。合計百八十三分。ヘボ碁の一局に、こんな長時間、あるものぢやない。これを村松大人、全然おひとりで考へたのだから、怖しい。
私はつまりこの対局のカンジンカナメ、勝負どころを見逃した。五五馬の新手に対する、名人の五四歩、これが決定的な敗着であつたといふ。それまで、名人がくづれるやうに駒を投じたとき、五四歩がいけなかつた、六四金と打つんだつた、とすぐ呟いた。
私が対局室へ戻つたとき、両棋士面色益々赤く、全く態度が変つてゐる。全くもう疲れきつてゐるのだ。気力も精魂も尽き果ててもう心棒がないくらゐグニャ/\した様子である。そのくせ部屋いつぱい、はりさけるやうに満ちてゐるのが、殺気なのだ。だらしなく向ひ合つてゐる膝をくづした両棋士、必死のものを電流の如く放射する、それは二人の人間のからだからでも精神気魂からでもなく、私にはそれがもうたゞ宿命、のがれがたい宿命、それが凝つて籠つてゐるからだ、と思はれた。
もう勝負がきまつてゐるのだ。勝負ぢやない。名人が名人でなくなつたといふ、たとへば死刑囚が死の台へ歩いて行きつゝあるやうな。
それでも、木村名人の態度が、改まる。悪党が居直る凄み、にはかに構へに力がこもつて、手を延しざま王をとりあげ、八二王、コマ音高くパチリと叩きつける。すぐタバコに火をつけ、塚田八段をジロリと見て、立ち上り去る。
塚田八段、左手を膝に、右手を袖口から差しこんで、フトコロ手で左の腕を抑へて、盤に
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