いふ厳命もあるし、高貴な方に卑しい話もと考へたが、意を決して三太夫に話をした。三太夫は亭主を甚だしく蔑む眼付をしてソッポを向いたといふのである。返答もしなかつた。が、やをらお部屋の廊下へ平伏してふすまの向ふへはひ込んでいつたかと思ふと、やがて音もなく現れてきて、「いづれ、とらせる」といつたさうである。それから二週間すぎた。また同じ所作を繰返して、三太夫の奴、いづれとらせると静かに答へたといふのだ。びた一文の心付もださない。亭主はひどく煩悶の態であつた。
私は面白くなつて、大の字にねころんだ。亭主は不安さうに私の顔をのぞき込んでゐたが、偽伯爵といふ怖ろしい言葉を発音する勇気はなかつたらしい。あきらめて退つていつた。その翌日、私は問題の御母堂に、出会はした。
山毛欅《ぶな》の密林をすぎると突然断ち切られたやうに明るい草原《くさはら》へ出る。さういふ好ましい大自然の下で私はこの愛けうのある人物に出会つたのである。私はお辞儀をした。決して皮肉の意味からではない。突嗟《とっさ》に、つひしてしまつたのであるが、それに多少にやにや笑つてゐたかも知れないが、微塵も悪意はなかつたのである。私は愛けう
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