山の貴婦人
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)希《まれ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ゆう[#「ゆう」に傍点]
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 上州、信濃、越後、丁度三国の国境のあたりに客の希《まれ》な温泉がある。私の泊つた宿には、県知事閣下御腰懸けのイスといふのが大切に保存されてゐて、村の共同湯に出没する人々にはドブチンスキーやボブチンスキーの面影があつた。近い停車場へも十数里の距離《みちのり》があつて、東京の客なぞ登山の季節にも滅多に来ない。単調で奇も変もない山国の風趣が気にいつて、私は暫く泊ることにした。
 ある日、宿の亭主がもみ手をしながらはいつてきたが、
「わし共は田舎者のことで、はや一向何事も存じませんが……」
 亭主は臆病な眼付で私を見凝めて口籠つてゐた。
「旦那××伯爵を御存じでしやうか?」
 ××伯爵の祖先は講釈本になじみのある名前であつた。
「さういふ伯爵もあるでせうね」
 と私は答へた。
「実はな、その御母堂様が二週間ほど前から手前どもに御滞在で――」
 宿賃を払つてくれないといふのである。直々の話は罷りならんと
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