な情慾をかきたてゝいたにすぎない。
 私はどんな放浪の旅にも、懐から放したことのない二冊の本があった。N・R・F発行の「危険な関係」の袖珍本で、昭和十六年、小田原で、私の留守中に洪水に見舞われて太平洋へ押し流されてしまうまで、何より大切にしていたのである。
 私はこの本のたった一ヶ所にアンダーラインをひいていた。それはメルトイユ夫人がヴァルモンに当てた手紙の部分で「女は愛する男には暴行されたようにして身をまかせることを欲するものだ」という意味のくだりであった。
 私はそのくだりを思いだしていた。そして、そこに限ってアンダーラインをひいていたことを、その道々苦笑したが、後日になっては、見るに堪えない自責に襲われ、殆ど、強迫観念に苦しむようになったのである。

          ★

 私の部屋はKホテルの屋根の上の小さな塔の中であった。特別のせまい階段を登るのである。
 せまい塔の中は、小型の寝台と机だけで一パイで、寝台へかける外には、坐るところもなかった。
 矢田津世子は寝台に腰かけていた。病院の寝台と同じ、鉄の寝台であった。
 私は、さすがに、ためらった。もはや、情慾は、まったく、
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