なかった。ノドをしめあげるようにしてムリに押しつめてくるものは、私の決意の惰性だけで、私はノロ/\とにじりよるような、ブザマな有様であった。
私は矢田津世子の横に腰を下して、たしかに、胸にだきしめたのだ。然し、その腕に私の力がいくらかでも籠っていたという覚えがない。
私は風をだきしめたような思いであった。私の全身から力が失われていたが、むしろ、磁石と鉄の作用の、その反対の作用が、からだを引き放して行くようであった。
私の惰性は、然し、つゞいた。そして、私は、接吻した。
矢田津世子の目は鉛の死んだ目であった。顔も、鉛の、死んだ顔であった。閉じられた口も、鉛の死んだ唇であった。
私が何事を行うにしても、もはや矢田津世子には、それに対して施すべき一切の意識も体力も失われていた。表情もなければ、身動きもなかった。すべてが死んでいたのであった。
私は茫然と矢田津世子から離れた。まったく、そのほかに名状すべからざる状態であったと思う。私は、たゞ、叫んでいた。
「出ましょう。外を歩きましょう」
そして、私は歩きだした。私について、矢田津世子も細い階段を下りてきた。
表通りへでると、私
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