子の女体を知りつくし、蔑み、その情慾を卑しんでいた。矢田津世子も、何らかの通路によって、私の男体を知りつくしていたに相違ない。
私たちは、慾情的でもあった。二人の心はあまりに易々と肉体を許し合うに相違なく、それを欲し、それのみを願ってすらいた。それを見抜き合ってもいた。
お互の肉慾のもろさを見抜き合い、蔑み合う私たちは、特にあの人の場合は、その蔑みに対して、鉄の壁の抵抗をつくって見せざるを得なかったであろう。二十七のあの人は、気軽に二人だけの愉しい旅行を提案することができたのに、そして、なぜ、あのとき、それを実行しなかったのであろうか。惜しみなく肉体を与えるには、時期があるものだ。矢田津世子はそれを呪っていた。その肉体に、憎しみや、卑しめや、蔑みの先立っている今となっては、あまりに残酷ではないか。
矢田津世子が、それをハッキリ言ったのは、この日であった。
下心を知りあって、そのためにフミキリのつかなくなった私は、よけいに苛々《いらいら》ジリジリと虚しい苦痛の時間を持たねばならなかった。だから私が、出ましょう、とうながして、私の部屋へ行きましょう、と誘うと、矢田津世子はホッとした様子であった。それは、なんとまア、くだらない疲れを重ねさせたじゃないの、と云うようにも思われた。
然し、私の宿への道を、無言に、重苦しく歩いていると、とつぜん、矢田津世子が言った。
「四年前に、私が尾瀬沼へお誘いしたとき、なぜ行こうと仰有らなかったの。あの日から、私のからだは差上げていたのだわ。でも、今は、もうダメです」
矢田津世子は、すべてをハッキリ言いきったつもりなのだが、その時の私は、すべてを理解することは出来なかった。
私は、もっと、意地わるく、汚らしく、考えた。
私はまず、四年前に、自らすゝんでからだを与えようとしたことを、執念深く、今となって言い訳しているのだという風に考えた。つづいて、下心を見ぬき合い、その一室へ歩きつゝある今となって、自らすゝんで肉体のことを言いだすのは、それもテレカクシにすぎないのだ、ということであった。
「なぜ、ダメなんです」
と、私はきいた。
「今日は、ダメです」
と、答えて、言いたした。
「今日は、ダメ。また、いつかよ」
まるで、鼻唄か、念仏みたいな、言い方であった。
私は、もう、返事をしなかった。私は一途にテレカクシを蔑み、下品な情慾をかきたてゝいたにすぎない。
私はどんな放浪の旅にも、懐から放したことのない二冊の本があった。N・R・F発行の「危険な関係」の袖珍本で、昭和十六年、小田原で、私の留守中に洪水に見舞われて太平洋へ押し流されてしまうまで、何より大切にしていたのである。
私はこの本のたった一ヶ所にアンダーラインをひいていた。それはメルトイユ夫人がヴァルモンに当てた手紙の部分で「女は愛する男には暴行されたようにして身をまかせることを欲するものだ」という意味のくだりであった。
私はそのくだりを思いだしていた。そして、そこに限ってアンダーラインをひいていたことを、その道々苦笑したが、後日になっては、見るに堪えない自責に襲われ、殆ど、強迫観念に苦しむようになったのである。
★
私の部屋はKホテルの屋根の上の小さな塔の中であった。特別のせまい階段を登るのである。
せまい塔の中は、小型の寝台と机だけで一パイで、寝台へかける外には、坐るところもなかった。
矢田津世子は寝台に腰かけていた。病院の寝台と同じ、鉄の寝台であった。
私は、さすがに、ためらった。もはや、情慾は、まったく、なかった。ノドをしめあげるようにしてムリに押しつめてくるものは、私の決意の惰性だけで、私はノロ/\とにじりよるような、ブザマな有様であった。
私は矢田津世子の横に腰を下して、たしかに、胸にだきしめたのだ。然し、その腕に私の力がいくらかでも籠っていたという覚えがない。
私は風をだきしめたような思いであった。私の全身から力が失われていたが、むしろ、磁石と鉄の作用の、その反対の作用が、からだを引き放して行くようであった。
私の惰性は、然し、つゞいた。そして、私は、接吻した。
矢田津世子の目は鉛の死んだ目であった。顔も、鉛の、死んだ顔であった。閉じられた口も、鉛の死んだ唇であった。
私が何事を行うにしても、もはや矢田津世子には、それに対して施すべき一切の意識も体力も失われていた。表情もなければ、身動きもなかった。すべてが死んでいたのであった。
私は茫然と矢田津世子から離れた。まったく、そのほかに名状すべからざる状態であったと思う。私は、たゞ、叫んでいた。
「出ましょう。外を歩きましょう」
そして、私は歩きだした。私について、矢田津世子も細い階段を下りてきた。
表通りへでると、私
前へ
次へ
全9ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング