た。そんな努力を払ったのは、後にも先にも、私一人に対してゞあったかも知れない。然し、努力であったことに変りはない。そうしながら、あなたは、私を憎み、卑しみ、蔑んでいたのである。変なくずれた甘さを見せかけるために、あなたの憎しみや卑しめや蔑みは、狂的に醗酵して、私の胸をめがけて食いこんでいた。
 あなたとても、同じことであったろう。然し、私はあなたを天才だなどとは言わなかった。才媛とすらも言わなかった。私には、余裕がなかった。然し、あなたを唯一の思いつめた恋人であるということは、たしかに言った。全ての心をあげて、叫ぶように言った。たしかに、そうだと信じていたのだから。そのくせ、それを叫ぶ瞬間には、私はいつもそれがニセモノであることに気がついて、まごつき、混乱し、その間の悪さ、恰好のつかなさ、空虚さに、ゲンナリしてしまったものだ。その間の悪さは、何か私が色魔で、現にあなたをタブラカシつつあるように、私自身に思わせたりしたが、それはつまり私が役者でなかったせいで、あらゆる余裕がなかったせいに外ならない。然し、それがあなたに与えた打撃は、ひどかったに相違ない。あなたは、私に、最も大きな辱しめを受け、卑しめられていると思ったであろう。あなたはすでに大人ではあったが、私のそれが、私が役者でないせいで、余裕のないせいであるということを見破るほどの大人ではなかった。あなたも、恋の技術家ではなかったのである。
 私が必死であったように、あなたの変に甘えたクズレも必死で、あなたが役者でなく、余裕のないせいであったかも知れない。その判断をつける自信は、今もなければ、未来もないに相違ない。
 然し、クズレた甘さというものは、キチガイめくものがあった。滑車が、ふとすべりだして、とまらなくて、自分でどうすることもできないようなダラシなさがあった。それは瞬間であった。その次には、もう、あなたは私を更に狂的な底意をこめて、憎しみ、卑しめ、蔑んでいたのだ。
 あなたのクズレた甘さときては、全然不手際な接木《つぎき》のように、だしぬけに猫の鳴声のような甘え方を見せるのだ。その白痴めく甘さと、キチガイの底意をこめた憎しみ卑しめ蔑みに、私はモミクチャに飜弄された。あなたに飜弄の意志はなくとも、私の受けるものは飜弄のみであった。
 同じことを、あなたは私に対しても、言い、叫びたいであろう。あなたも、私を呪ったに相違ない。
 私たちは、三十分か、長くて一時間ぐらい対座して、たったそれだけで、十年も睨みあったように、疲れきっていた。別れぎわの二人の顔は、私は私の顔を見ることは出来ないけれども、あなたのヒドイ疲れ方にくらべて、それ以下であったとは思わない。あなたはお婆さんになったように、やつれ、黙りこみ、円タクにのって、その車が走りだすとき、鉛色の目で私を見つめて、もう我慢ができないように、目をとじて、去ってしまう。
 別れたあとでは、二十七のあのころと同じように、苦痛であった。然し、対座している最中の疲れは、さらにヒドイものであった。会うたびに、私たちは、別れることを急いだものだ。

          ★

 矢田津世子と最後に会った日は、あの日である。たそがれに別れたのだが、あのときはまだ雪は降っていなかったようだ。
 その日は速達か何かで、御馳走したいから二時だか三時だか、帝大前のフランス料理店へ来てくれという、そこで食事をして、私は少し酒をのんだ。薄暗い料理屋であった。
 私は決して酔っていなかった。その日は、速達をもらった時から、私は決意していたのである。
 私は、矢田津世子に暴力を加えても、と思い決していた。むしろ、同意をもとめて、変にクズレた、ウワズッたヤリトリなどをしたくはなかった。問答無用、と私は考えていたのだ。
 食事中は、そのことは翳にも見せず、何やら話していた筈であるが、もともと私たちの話はいつも最も不器用にしか出来ないところへ、そういう下心があっては、それが相手に感づかれずにいるものではない。
 下心を知り合って、二人は困りきっていた。私は矢田津世子が私の下心を見ぬいたことを知っていたし、それに対して、色々に心を働かせていることを見抜いていた。
 私は矢田津世子と対座するたびに、いつも、鉄の壁のような抵抗を感じていた。彼女も、同じものを私から感じていたであろう。
 鉄の壁の抵抗とは、矢田津世子が肉体を拒否しているということではない。その点は、むしろ、アベコベなのだ。
 私たちはお互に、肉体以上のものを知り合っていた。肉体は蛇足のようなものであった。
 私たちはすでに肉体以上のものを与え合っていた。肉体を拒否するイワレは何もない。肉体から先のものを与え合い、肉体以後の憎しみや蔑みがすぐ始っていたのだ。
 私はすでに「いづこへ」の女を通して、矢田津世
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