三年間、私が夢に描いて恋いこがれていた矢田津世子は、もはや現実の矢田津世子ではなかったのだ。夢の中だけしか存在しない私の一つのアコガレであり、特別なものであった。
今日の私はその真相を理解することができたけれども、当時の私はそうではなかった。私の恋人は夢の中で生育した特別な矢田津世子であり、現実の矢田津世子ではなくなっていることを理解できなかったのだ。私はたゞ、驚き、訝り、現実の苦痛や奇怪に混乱をつゞけ、深めていた。
現実の矢田津世子は、夢の中の矢田津世子には似ず、呆れるほど、別れたばかりの女に似ていた。むしろ、同じものであったのだ。同じ女体であったから。私は然し、当時は、恋する人の名誉のために、同じ、という見方を許すことができなかったから、私の理解はくらみ、益々混乱するばかりであったのである。
二十七歳のころは、私は矢田津世子の顔を見ているときは、救われ、そして安らかであった。三十歳の私は、別れたあとの苦痛の切なさは二十七のころと同じものであったが、顔を合せている時は、苦しさだけで、救いもなく、安らかな心は影だになかった。
私はあの人と対座するや、猟犬の鋭い注意力のみが感官の全部にこもって、事々に、あの人の女体を嗅ぎだし、これもあの女に似てるじゃないか、それもあの女と同じじゃないか、私は女体の発見に追いつめられ、苦悶した。
そのくせ、二十七の矢田津世子はむしろ軽薄みだらであり、三十の矢田津世子は、緊張し、余裕がなかったのだ。
二十七の矢田津世子は、私に二人だけの旅行をうながし、二人だけで上高地をブラブラしたいとか、尾瀬沼へ行ってみたい、などと頻りに誘ったものである。それは時が夏でもあったが、薄い短い服をきて、腕も素足もあらわに、私はそれを正視するに堪えなかったものである。然し、当時のあの人はむしろ無邪気であったのだろう。
三十の矢田津世子は武装していた。二人で旅行したいなどとは言わなかった。私も言わなかった。二十七の私たちは、愛情の告白はできなかったが、向いあっているだけで安らかであり、甘い夢があった。三十の私たちは、のッぴきならぬ愛情を告白しあい、武装して、睨み合っているだけで、身動きすらもできない有様であった。
私も、あの人も、大人になっていたのだ。私は「いづこへ」の女との二年間の生活で、その女を通して矢田津世子の女体を知り、夢の中のあの人と、現実のこの人との歴然たる距《へだた》りに混乱しつゝも、最も意地わるくこの人の女体を見すくめていた。
矢田津世子も、彼女の夢に育てられた私と、現実の私との距りの発見に、私以上に虚をつかれ、度を失い、収拾すべからざるものがあったのではないかと私は思う。矢田津世子が何事を通してそのような大人になったか、私には分らぬけれども、彼女が私の現身《うつしみ》に見出し、見すくめ、意地わるくその底までもシャブリつゞけていたものは、私が見つめていた彼女の女体よりも、もっと俗世的な、救いのないものではなかったかと私は思った。その当時から、そう思っていた。
さきに私は、当時の私を生かすもの、ともかく私の生命の火の如きものが、勝敗であったと云った。思うに私は少年の頃から、勝利を敗北の形で自覚しようとする無意識な偏向があったようだ。
私はすでに二十の年から、最も屡々《しばしば》世を捨てることを考え、坊主になろうとし、そしてそのような生き方が不純なものであると悟って文学に志しても、私が近親を感じるものは落伍者の文学であり、私のアコガレの一つは落伍者であった。
私は恋愛に於ても、同じことを繰返したようである。その繰返しは、私の意識せざるところから、おのずから動きだしていたものであるが、それが今日の私に何を与えたであろうか。私には分らない。恐らく私の得たものは、今日あるもの、そして、今書きつゝあること、今書かれつゝあるこのことを、それと思うべきであるのかも知れない。
私は然し、今日、私がこのように平静でありうるのも、矢田津世子がすでに死んだからだと信ぜざるを得ないのである。
思えば、人の心は幼稚なものであるが、理窟では分りきったことが、現実ではママならないのが、その愚を知りながら、どうすることもできないものであるらしい。
矢田津世子が生きている限り、夢と現実との距りは、現実的には整理しきれず、そのいずれかの死に至るまで、私の迷いは鎮まる時が有り得なかったと思われる。
矢田津世子よ。あなたはウヌボレの強い女であった。あなたは私を天才であるかのようなことを言いつゞけた。そのくせ、あなたは、あなたの意地わるい目は、最も世俗的なところから、私を卑しめ、蔑んでいた。
又、あなたは私が恋人であるように、唯一の良人たる人であるように、くずれたような甘い言葉や甘い身のコナシを見せようと努力してい
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